第六話 ヴィオラの棚
三階の奥は、部屋というより物置だった。
天窓から光が一筋落ちて、埃がその中で回っている。麻布をかけられた棚が壁三面に並び、床には木箱が積み上げられていた。
布を外すと、瓶だった。
数百本ある。大きさはまちまちで、どれも同じ形の栓がしてある。手書きの札が首に結びつけられていて、字は小さく、丸かった。
セレナは一本を取った。
――「三の月・河向こうの柳・雨のあと」
次を取る。
――「五の月・南倉の裏・干し草を焼いたあと」
匂いの名前ではない。場所と時間の記録だった。
栓を抜いて嗅ぐ。ほとんど何もしない。六年、七年と経てば飛ぶ。それでも、瓶の内側の壁にわずかに残った膜から、乾いた青い匂いが立った。柳の若枝を折ったときの匂いだ。
この子は、香りを作ろうとしていたのではない。
残そうとしていた。
セレナは棚の端から順に札を読んでいった。三の月から始まって、順番に月が進む。十一の月まで来て、そこで途切れていた。最後の一本の札には、場所も時間もなかった。
――「兄さんに」
中身は空だった。栓は開けられていた。
階下に降りると、ラウルは荷検め台で麻縄を数えていた。
「三階の瓶は、妹さんのものですね」
「そうだ」
「何本あるか、ご存じですか」
「知らん」
セレナは台の縁に手を置いた。
「四百二十六本です。三の月から十一の月まで、日付順に並んでいました」
ラウルの指が止まった。
「最後の一本に、兄さんに、と書いてありました。中身はありません」
麻縄が台の上に落ちた。
彼はしばらく縄を見ていた。それから、荷検め台の向こうの壁に視線を移した。壁には何もなかった。
「あの日、俺は妹に呼ばれた」
低い声だった。
「六年前の十一の月だ。ヴィオラは十七で、この家の香を継ぐつもりでいた。母方が香を扱う家系でな。俺は交易の方で、匂いのことは何ひとつわからなかったが、あいつが作ったものは全部嗅がされていた」
「その日も」
「その日は、瓶を渡された。これを嗅いでほしい、と」ラウルは腕を組んだ。「俺は栓を抜いて、吸った。それきりだ」
「それきり、というのは」
「その瞬間から、匂いがない」
セレナの背筋が冷えた。
「妹さんは」
「同じ日に倒れた。三日眠って、目を覚まして、それから香に触っていない。今は母方の領地にいる。手紙は来る。元気だと書いてある」
「何を作ろうとしていたか、聞きましたか」
「聞いた。覚えていないと言われた」
嘘だ、とセレナは思った。
だが、それは口に出さなかった。覚えていないと言う人間には、二種類しかいない。本当に失った人間と、言わないと決めた人間だ。どちらにしても、この兄には言えなかったということだ。
「医者は何と」
「鼻にも頭にも異常はない、と。何人にも見せた」ラウルは麻縄を拾い上げた。「六年だ。もう探すのはやめた」
「私は探します」
彼が顔を上げた。
「雇われたのは鼻だと言ったな」
「鼻を雇った以上、鼻のことは私の領分です」セレナは言った。「病でないなら、香が原因です。香が原因なら、香で戻せる可能性があります。ないとは言いません。あるとも言いません。ただ、六年間、香を知っている人間が一度もこれを見ていない」
「医者は見た」
「医者は病を探します。私は配合を探します。別のものです」
ラウルは長く黙っていた。
やがて、彼は縄を台に置いた。
「条件は」
「三階の瓶を、全部使わせてください。それと、妹さんに手紙を書く許可を」
「手紙は俺が書く。あんたの名前は出す」
「充分です」
「報酬は」
「要りません」
「それは駄目だ」ラウルは首を振った。「無償で受け取ると、俺はあんたに借りができる。借りのある相手の判定は信じられなくなる。仕事として値をつけろ」
セレナは少し笑いそうになった。この人はどこまでも商人だった。
「では、成功したときだけ払ってください。失敗したら一枚も要りません」
「額は」
「そのときの、私の言い値で」
ラウルの眉が上がった。
「足元を見る気か」
「三年半の先買権を取った人に言われたくありません」
彼が声を出して笑ったのは、そのときがはじめてだった。短く、一度きりだったが。
その夜、セレナは染物屋の土間に四百二十六本を並べた。リタが十本ずつ運び、数を数え、途中で飽きて眠った。
セレナは札を月ごとに分け直した。三の月が四十一本。四の月が五十八本。増えていき、九の月で百を超え、十の月で急に減って十四本になる。
十一の月は、二本だけだった。
一本は「兄さんに」。空。
もう一本の札には、こう書かれていた。
――「これで最後にする」




