第五話 値のつかないもの
湯気が上がりはじめると、リタが土間の隅で鼻を鳴らした。
「あ」
「わかる?」
「あったかい匂い。……ちがう、冷たい」
「両方よ」セレナは受け器を見ながら言った。「最初に冷たい匂いが出て、後から甘いのが来る。順番が命なの」
受け器の底に、薄い油の層が溜まっていく。琥珀ではなく、ほとんど無色に近い。
王都の三年間、この工程を何百回やっただろう。指が勝手に動いた。火の加減も、水を差す間合いも、覚えていた。
油が指先ほど溜まったところで、セレナは火を落とした。
匂いを嗅ぐ。
――足りない。
柑橘は正しい。処理も正しい。だが『黎明』にはならない。当然だ。あれは三つで一つになる。樹脂と、蜜と、この皮。手元の没薬は割れて変質しているし、蜂蜜は買えていない。
それに。
セレナは受け器を光にかざした。
仮に全部揃ったとして、それを作ってどうする。名乗り出るための証拠にはならない。「同じものが作れる」というのは、盗んだ側でも言える主張だ。ミレイユが同じことを主張したら、判定するのは組合で、組合の理事はガレル師だ。
王都の土俵で戦えば、必ず負ける。
彼女は油を小瓶に移し、栓をして、棚の一番奥に置いた。
まだ使わない。
その日の午後、商会から呼び出しがあった。
荷検めの土間ではなく、二階の事務室だった。壁一面が帳簿の棚で、床に麻袋がひとつだけ置かれている。ラウルはその袋の前に立っていた。
「あんたが買わせた皮だ」
「はい」
「昨日、同じものが西の街道でもう三十袋動いた。うちの仲買が聞きつけた」
セレナは息を止めた。三十袋。
「値は」
「捨て値だ。買い手がつかん」ラウルは袋を蹴った。音が鈍かった。「香料としては地味で、薬にもならない。この街で捌ける品じゃない。それを誰かが大量に持っていて、投げ売りしている」
「……ええ」
「あんたは、あれが動く理由を知っているな」
窓から入る光が、帳簿の背表紙を斜めに切っていた。
セレナは膝の上で指を組んだ。言うべきかどうかではなく、どこまで言えば取引が成立するかを考えた。この人は情けで金を出さない。なら、情けを求めない形で渡すしかない。
「王都の工房が、ある香を再現しようとして失敗しています。原料を大量に仕入れたけれど、作れなかった。だから在庫を捨てている」
「その香を、あんたは作れる」
「作れます」
「なぜ王都でそれをやらなかった」
「作ったのは私です」セレナは顔を上げた。「名前を、別の人間のものにされました。それだけです」
沈黙が落ちた。
ラウルは表情を変えなかった。同情も驚きもなかった。彼はしばらく麻袋を見下ろして、それから言った。
「証明できるか」
「できません」
「記録は」
「筆跡を似せて書き直されました。証人は全員あちらの給金で動いています」
「なら、その話は今のところ値がつかん」
言葉は冷たかった。だが、セレナは奇妙に楽になった。
この人は「かわいそうに」と言わなかった。値がつかない、と言った。それは、値がつく形にすれば取引になるという意味でもある。
「ひとつ、値のつく話をします」セレナは言った。「三十袋、全部買ってください」
「地味な香料をか」
「三年後に、この街で一番高い皮になります」
「根拠は」
「私が使うからです」
ラウルの口の端が動いた。笑ったのかもしれなかった。
「商人の言い方だな」
「王都で仕入れを担当していたので」
「値は」
「今の捨て値なら、三十袋で銀貨十五枚以下のはずです。三年寝かせても腐りません。むしろ良くなる。損はしません」
「損をするかどうかは俺が決める」ラウルは帳簿を一冊抜き取った。「買う。ただし条件を足す」
「はい」
「その香を作れるようになったら、最初にうちに卸せ。値はそのとき決める」
「――独占ですか」
「先買権だ。断ってもいい。断るなら皮は買わん」
セレナは考えた。
いま自分は何も持っていない。作業場も蒸留器も、この人の物だ。ここで首を縦に振れば、作れたときの利益の一部は最初から相手のものになる。
だが。
三十袋の皮を自力で買える日は、少なくとも半年は来ない。半年待てば、皮は他所へ散る。
「先買権をお渡しします」セレナは言った。「ただし期限を切ってください。五年」
「三年だ」
「四年」
「三年半」
ラウルが手を出した。セレナは握った。
商会を出るとき、階段の下で足が止まった。
「ひとつ、伺っても」
ラウルが振り返る。
「あの蒸留器。裏に V.A. と刻んでありました」
彼の顔から、はじめて表情が抜けた。
抜けた、という言い方が正しかった。無表情になったのではなく、そこにあったものが引き上げられたような顔だった。
「ヴィオラ・アーデンフェルト」
「――ご家族ですか」
「妹だ」
それ以上は何も言わず、彼は階段を上がっていった。
路地に戻ると、リタが土間で袋を数えていた。
「ねえ、これ全部うち?」
「うちじゃない。預かりもの」
「ふうん」子どもは袋にもたれかかった。「セレナ、あのひと、匂いわかんないんでしょ」
セレナは手を止めた。
「誰から聞いたの」
「みんな言ってる。港の人も。だから騙されるんだって」
みんな言っている。街中が知っている。
それなのに、六年間、誰も直そうとしなかった。医者が原因を言い当てられなかった病を、街の人間は「そういうものだ」と受け入れている。
セレナは棚の奥の小瓶を見た。
匂いのわからない人間に、香りは売れない。
だが――匂いのわからなくなった原因が病でないなら、話は別だ。




