第四話 染物屋の跡
潰れた染物屋は、河港の裏の路地の突き当たりにあった。
扉を開けた瞬間、セレナは一歩下がった。
藍の甕が三つ、割れずに残っている。中身は乾ききって、底に黒い皮のようなものが張りついていた。腐った藍と、羊毛の脂と、それが何年も湿気を吸って発酵した匂い。喉の奥に爪を立てられるような臭さだった。
「言っただろう」
背後でラウルが言った。鍵を渡すためについてきたのだ。彼には何も感じていないらしい。それが少しだけ不公平に思えた。
「三日ください」セレナは言った。「三日で使えるようにします」
「無理なら別の物件を探す」
「無理ではありません。臭いには順番があるだけです」
一日目は、水だった。
染物屋には水路が引き込まれている。木の樋が半分腐っていたので、まずそれを直した。腐った木は、腐った匂いを出し続ける。匂いを消す仕事は、匂いの出所を潰す仕事だ。香りを重ねて隠すのは素人のやり方で、三日で元に戻る。
甕の中身をかき出したのは二日目。
黒い皮を割ると、内側から粘つく匂いが立ち上った。セレナは口布を巻き、指で掬っては桶に移した。掌が藍で染まって、洗っても落ちなくなった。
途中で、外から声がした。
「くさい」
路地の入口に、小さな影が立っていた。十歳くらいの女の子だ。髪が短く、袖が明らかに他人の服だった。素足だった。
「くさいよ、ここ」
「知ってる」セレナは手を止めずに言った。「あなた、鼻がいいのね」
「え」
「この距離で気づくなら、いい方よ」
子どもは少し考えて、それから路地の壁に背を預けて座った。帰る様子はなかった。
三日目、セレナは石灰を買ってきて甕の内側を焼いた。床に酢を撒き、乾かし、その上を炭の粉で拭いた。最後に、割れた没薬をひと欠片だけ、土間の隅で燻した。
夕方には、部屋は「水と石と、少し樹脂の匂いがする場所」になっていた。
「入っても」
女の子が戸口から顔を出していた。
「いいけど、何もないわよ」
「くさくない」
子どもは土間の真ん中に立って、両手を広げて息を吸った。それから、疑うような目でセレナを見上げた。
「魔法?」
「順番」セレナは言った。「腐った木を替えて、腐ったものを出して、床を焼いて、それから匂いを一つだけ足した。全部やらないと戻る」
「ふうん」
「名前は」
「リタ」
「セレナよ。手伝う気があるなら、明日は炭を運ばせる」
「お金くれるの」
「くれる」
商会からの最初の仕事は、四日目に来た。
河港の卸売場で、月に一度の大口検分がある。ラウルは彼女を荷検め台の横に立たせ、自分は少し離れて腕を組んでいた。
商人が袋を開ける。セレナが嗅ぐ。理由を口に出す。
「乳香、二番袋。松の若脂が三割。値は半分まで」
「没薬、五番。本物ですが去年の。表面の油が固まっています。買うなら二割引き」
「これは」
セレナは七番の袋の前で止まった。粒を割り、断面を見て、それから鼻に近づけずに、袋の口から立ち上る空気だけを吸った。
――知っている匂いだ。
柑橘の乾皮。それも、ただの乾皮ではない。皮を剥いだ後、日陰で七日、風に当ててから塩水を通したもの。この処理をする農家は、王都近郊の南斜面に三軒しかない。セレナはその三軒全部から、三年間買い続けていた。
「これはどこから」
「西の街道からだよ」商人が言った。「産地は知らん。仲買から仲買だ」
セレナは袋の中に手を入れ、底の方から一掴み取り出した。上層と下層で、乾き方が違う。上は新しく、下は古い。二回に分けて詰められている。
誰かが、この皮を大量に買い集めている。
そして王都から西へ流している。
王都で柑橘の乾皮を大量に必要とする工房は、一つしか思い当たらなかった。あの香りの再現を、いま必死でやっている工房だ。
だが――流している。買い集めているのではなく、放出している。
「この袋、全部買ってください」セレナは言った。
ラウルが眉を上げた。「値打ちがあるのか」
「値打ちはありません。上等ですが、香料としては地味です。売り物にはならない」
「なら要らん」
「私が個人で買います。給金の前借りで結構です」
商人が値を言った。銀貨二枚。セレナが今まで見たどんな買い物より高い額だった。
ラウルは彼女の顔を三秒ほど見て、それから商人に頷いた。
「商会が買う。あんたの取り分から引く」
「ありがとうございます」
「理由は言わないんだな」
「言えるようになったら言います」
帰り道、リタが袋を引きずりながらついてきた。
「これ何」
「みかんの皮」
「食べられる?」
「まずいわよ」
セレナは坂を登りながら考えていた。
ミレイユは『黎明』を再現できていない。配合は写せても、原料の素性までは写せなかった。だから王都の工房は、代わりになる皮を探して失敗し、集めた在庫を持て余して西へ流している。
まだ、あの香りは彼女のものになっていない。
――なら、間に合う。
何に間に合うのかは、自分でもまだ言葉にできなかった。ただ、腹の底が熱かった。それは怒りに似ていたが、怒りよりも作業に近い熱だった。
染物屋に戻ると、土間に木箱がひとつ置かれていた。
中身は蒸留器だった。銅製で、古い。継ぎ目に修理の跡がある。
添えられた紙には、商会の筆跡で一行だけあった。
――倉庫の奥にあった。使えるなら使え。家賃に上乗せする。




