第三話 嗅げない男
アーデンフェルト商会の建物は、坂の一番上にあった。
石造りの三階建てで、正面ではなく側面に荷の出入口がある。商会というより、砦の造りだった。セレナは正面の扉を叩き、東門の貼り紙を見て来たと告げた。
通されたのは事務室ではなく、荷検めの土間だった。麻袋が壁際に積まれ、天井近くの窓から光が斜めに落ちている。
埃と麻と、それから――松脂の匂いがした。
「目利きの応募か」
声は背後からした。
振り返ると、男が階段を降りてくるところだった。長身で、外套は着ていない。袖を肘までまくった腕に、荷を運ぶ人間の筋肉がついている。領主代行と聞いていたが、爵位持ちらしい柔らかさがどこにもなかった。
「ラウル・アーデンフェルトだ。商会の頭をやっている」
「セレナと申します。調香ができます」
「調香師か。組合の登録番号は」
「ありません」
ラウルの目がわずかに動いた。追い出されるか、と思った。
「なるほど」彼はそれだけ言って、麻袋のひとつを顎で示した。「これを見ろ」
セレナは袋の口を開けた。安息香。卸売場で見たものと同じ、断面が均一に飴色の粒。
「一級と書いてあります」
「書いてある。中身は」
「三割は本物です。残りは松脂に糖を混ぜて固めたもの。焚けばわかります。本物は最初に苦みが立ってから甘くなる。これは最初から甘い」
「値は」
「一級として買っているなら、四倍は払っています」
土間が静かになった。
ラウルは袋の縁に手をかけ、粒をひとつ摘まみ上げた。指で割り、断面を目の高さに持ってくる。それから――鼻に近づけた。
長く、深く吸った。
二度。三度。
そして、粒を袋に戻した。
「わからん」
平坦な声だった。悔しがってもいなければ、隠してもいなかった。
「六年前から、匂いがしない。味もだ。医者は原因を言い当てられなかった」
セレナは息を止めた。
目利きを雇っても意味がない理由。違った。雇えなかったのではない。
「……ご自分で確かめられないから」
「そうだ」ラウルは腕を組んだ。「目利きを雇うということは、そいつの言葉を信じるということだ。俺には検算ができない。雇った目利きが商人と組めば、俺は前より高い金を払って偽物を買う。三年前に一度やった。損害は四千ドラム」
だから資格不問だったのだ。
資格のある人間は、資格のある人間同士で繋がっている。組合を通せば、組合の顔が効く相手が来る。彼が欲しかったのは、この街の誰とも繋がっていない鼻だった。
「あなたは今、条件を二つ満たしている」ラウルが言った。「登録がない。この街に来て何日だ」
「五日です」
「三つだ」
試験はその場で行われた。
ラウルが小僧に運ばせた木箱には、十二の小瓶が入っていた。番号だけが振ってある。
「六つは本物、六つは混ぜ物だ。分けろ。俺は正解を知っている」
「どうやって」
「買値と、去年潰れた工房の証言だ。三年かけて集めた」
セレナは瓶を並べ替えた。
一番。乳香。松の若い脂の匂いが強すぎる。混ぜ物。
三番。没薬。苦みの後ろに、埃っぽい甘さ。本物。
七番で手が止まった。
栓を抜いて、鼻から離して嗅ぐ。近づけて嗅ぐ。もう一度離す。
「これは」
「どうした」
「本物です。ただ、二年ほど古い。保管が悪くて表面の油が固まっています。混ぜ物ではありませんが、一級の値では買わないでください」
ラウルの眉が上がった。
十二本を分け終えるのに、四半刻かかった。
彼は結果を紙と照らし合わせ、それから長く黙った。
「十一本、合っている」
「一本は」
「九番だ。俺の記録では本物になっている」
「九番は偽物です」セレナは言った。「正確には、本物の粉を混ぜて練り直したもの。証言した工房は、たぶん練り直した側です」
ラウルは紙を畳んだ。
「面白い」
はじめて、その顔に表情らしいものが浮かんだ。笑ったわけではない。獲物の値段を計算している商人の顔だった。
「条件を言う」彼は指を三本立てた。「一、卸の検分に立ち会え。月に四度。二、判定は理由まで口で説明しろ。俺が覚えて使えるようにだ。三、判定を他人に売るな」
「報酬は」
「一月、銀貨十二枚」
セレナは息を吸った。宿代が一日銅貨六枚。銅貨百枚で銀貨一枚だ。生きられる額どころではない。
「多すぎます」
「損害額から逆算しただけだ」ラウルは肩をすくめた。「あんたに払う十二枚で、四千ドラムの穴が塞がるなら安い。俺は情けで金を出す趣味はない」
その言い方が、なぜか、王都で聞いたどんな言葉よりも楽だった。
この人は私に同情していない。値段をつけている。
「では、こちらからも条件を」セレナは言った。「作業場を貸してください。狭くて構いません。火が使えて、水が引けて、鍵がかかる場所を」
「雇うのは鼻だ。調香をやれとは言っていない」
「鼻は使えば鈍ります。研がなければ、三月で判定の精度が落ちます」
嘘ではなかった。だが、全部でもなかった。
ラウルはしばらく彼女を見ていた。見透かされている、とセレナは思った。
「河港の裏に、潰れた染物屋がある」やがて彼は言った。「水は引いてある。臭うぞ」
「臭いは消せます」
「家賃は取る」
「結構です」
書面は交わさなかった。ラウルが手を出したので、セレナは握った。荷を運ぶ人間の手だった。
商会を出ると、坂の下から河の匂いが上がってきていた。
セレナは坂を降りながら、頭の中で計算をしていた。銀貨十二枚。原料の仕入れに四枚。器具に三枚。残りで暮らせる。三月あれば、蒸留器を一台買える。
そして、ふと足を止めた。
匂いがしない。味もしない。六年前から。医者は原因を言い当てられなかった。
匂いを感じなくなる病は、いくつかある。頭を打つ。高い熱を出す。鼻の奥に腫れができる。どれも医者が見ればわかるものだ。
わからなかった、ということは。
セレナは坂の途中で振り返り、石造りの建物を見上げた。
――あれは、病ではない。




