↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奪われた香りは、私のものです ~王家御用達の調香師見習いは、追われた辺境で自分の工房を持つことにした~  作者: やまご


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/65

第二話 路銀と、乾いた柑橘の皮

 王都からアルシェまで、隊商で十二日かかった。

 セレナは荷馬車の後ろに乗せてもらう代わりに、夜の見張りを引き受けた。金は最初の三日で尽きた。四日目から、彼女は自分の食い扶持を香りで払った。


 最初の客は、隊商の御者頭だった。

「あんた、その箱でずっと何をやってる」

「油を戻しています」

 セレナは焚き火の端に石を置き、その上に小さな錫の器を乗せていた。中には、王都から持ち出した柑橘の乾皮が数枚。捨てられる予定だった、油の抜けかけた皮だ。

「乾いた皮は、香りが飛んだんじゃありません。表面で固まっているだけです。ゆっくり温め直せば、まだ出てきます」

 器の縁から、細い湯気が上がった。

 御者頭が鼻を鳴らし、それから顎を引いた。焚き火の煙と獣脂の匂いが充満していた場所に、乾いた柑橘の皮の匂いが一本だけ、まっすぐ通った。

「……何だそりゃ」

「五日、眠れていないでしょう」

 男の肩が止まった。

「肩の右側だけ荷を担いでいる匂いがします。汗の抜け方が左右で違う。それと、寝台代わりの毛布が湿っている。湿った羊毛の匂いは、鼻の奥に残って眠りを浅くします」

 セレナは温めた皮を布に包み、男に差し出した。

「毛布の頭側に入れて寝てください。二日はもちます」

 翌朝、御者頭は黙って干し肉を二切れ置いていった。

 三日後には、隊商の半分が布包みを枕元に入れていた。セレナは一包み銅貨一枚で売った。十四包み売って、銅貨十四枚。アルシェの安宿に二泊できる額だった。


 アルシェは、河が街道を飲み込んだような街だった。

 石畳の坂道が河港まで一直線に落ちていて、その両側に荷揚げ場と倉庫と屋台が段々に張りついている。空気の層が場所ごとに違う。港の方から魚と麻縄とタールの匂い、坂の中腹から炭と獣脂と揚げ油、上に行くほど乾いて、香辛料と埃の匂いになる。

 セレナは坂の中腹で足を止めた。

 ここだ、と鼻が判断した。人が最も長く立ち止まる高さ。


 露店の場所代は一日で銅貨三枚だった。市場管理人は彼女の木箱を一瞥して、鼻で笑った。

「割れた薬種か。うちは薬種商の組合がうるさいぞ。薬は売るな」

「薬ではありません。香りです」

「同じことだろう」

「違います。効能を謳えば薬です。私は匂いしか売りません」

 管理人は少し黙って、それから銅貨を受け取った。


 初日、セレナは布を一枚敷き、その上に小さな布包みを並べた。看板は出さなかった。

 代わりに、彼女は炭を熾した小皿を足元に置き、そこに没薬の欠片をひとつだけ落とした。

 煙は上がらない。ただ、通行人の呼吸の高さに、樹脂の匂いがゆっくり広がっていく。乾いて、少し苦くて、後から甘い匂いだ。人はこの匂いを嗅ぐと、なぜか歩幅が短くなる。

 三人目で足が止まった。

 荷揚げの女だった。手の甲がひび割れて、指の関節が腫れている。

「なんだいこれ。祭りの匂いだね」

「供物によく使われますから」

「いくら」

「一包み銅貨二枚。あなたには売りません」

 女が眉を上げた。

「あんた、商売する気あるのかい」

「その手には没薬より、こちらの方がいい」セレナは別の包みを出した。「油です。獣脂を精製したものに、樹脂を少し。匂いは弱いですが、割れた皮膚の上で膜になります」

「効くのかい」

「効くとは言えません。組合に叱られるので」

 女がはじめて笑った。銅貨を二枚置いていった。


 その日の売上は銅貨十一枚。場所代を引いて八枚。宿代が六枚。

 二日目は十九枚。三日目は雨で四枚。

 四日目、原料が尽きた。


 河港の卸売場に行けば、香料は買える。だが並んでいるものを見て、セレナはその場に立ち尽くした。

 安息香の袋。表に貼られた札には「南方産・一級」とある。

 匂いを嗅がなくてもわかった。粒の光り方が違う。本物の安息香は、割ると内側が乳白色に濁っている。ここに積まれているものは、断面が均一に飴色をしていた。松脂に砂糖を混ぜて固めたものだ。

 隣の樽の没薬も同じだった。半分は本物、半分は着色した樹脂の屑。混ぜてある。混ぜてあるということは、混ぜた人間が、買い手は見分けられないと知っているということだ。

「一級品だよ、お嬢さん」商人が愛想よく言った。「アーデンフェルト商会も同じ産地から買ってる」

 セレナは顔を上げた。

「商会が、これを」

「毎月まとめてな。目利きなんて誰も来やしないよ」


 その夜、セレナは宿の階段に座って、東門で見た貼り紙の文言を思い出していた。

 香料の目利きを求む。報酬応相談、資格不問。

 資格不問という言葉の意味が、ようやくわかった。あれは寛容なのではない。切羽詰まっているのだ。この街で一番大きな商会が、松脂に砂糖を混ぜたものを一級品の値段で買い続けている。

 誰も見抜けていない。

 いや――と、セレナは思い直した。

 目利きを雇えば済む話だ。この規模の商会なら、王都から一人呼べばいい。それをせずに、資格不問の貼り紙を東門に出している。

 雇えないのではなく、雇っても意味がない理由がある。

 セレナは膝を抱えた。腕の中の木箱は、もう軽い。明日の場所代は払える。明後日は払えない。

 朝になったら、坂の上へ行こうと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。