第一話 功績を奪われた日
王宮の大広間は、蜜蝋と磨いたばかりの床板の匂いで満ちていた。
セレナ・ヴァイルは列の最後尾で、自分の指先を嗅いでいた。爪の間にまだ残っている。乾いた柑橘の皮、雨のあとの樹脂、それから一晩だけ火にかけた蜂蜜。この三つが噛み合うまでに三年かかった。
今日、その香りに名前がつく。
壇上で、ヴァイル工房の主人であるガレル師が瓶を掲げた。琥珀色の液体が、天窓の光を吸って濁りなく澄んでいる。濁らせないために、セレナは三十七回、蒸留の温度を下げ直した。
「王妃陛下に献上いたします、新たな一香。名を――『黎明』」
栓が抜かれる。
広間の空気が、わずかに動いた。前列の貴婦人が扇を止め、老いた侍従長が目を閉じる。香りが人の呼吸を変える瞬間を、セレナは何度も工房で見てきた。けれど百人がいっせいにそうなるのを見るのは、はじめてだった。
喉の奥が熱くなる。指先が冷たい。
「見事です」王妃の声は乾いていた。「これを作ったのは、どなたです」
セレナは半歩、前に出た。
ガレル師が振り返る。目が合った。
そして、彼は隣に立つ娘の背を押した。
「わたくしの弟子、ミレイユ・ヴァイルにございます」
深紅の礼服の裾を持ち上げて、義姉が膝を折った。所作は完璧だった。あの人はいつだって、人前での動き方だけは完璧だった。
「ミレイユ・ヴァイルと申します。陛下の御代にふさわしい香をと、三年をかけて」
三年。
その言葉が耳の中で二度跳ねた。
セレナは覚えている。ミレイユが工房の調香室に入ったのは、これまでに四度だけだ。一度目は花瓶を取りに。二度目は父の使いで。三度目は蒸留器の音がうるさいと文句を言いに。四度目は先月、完成した瓶を見に来て、「地味な色ね」と言って出ていった。
気づいたときには、声が出ていた。
「それは、私が作りました」
広間の音が消えた。
百の顔がいっせいにこちらを向く。侍従長の眉が上がる。ガレル師の表情だけが、まったく変わらなかった。変わらないということが、答えだった。彼は驚いていない。想定していたのだ。
「セレナ」ガレル師が静かに言った。「下がりなさい」
「調合記録は工房の三番棚にあります。日付も、失敗した配合も、全部私の字で――」
「その記録帳なら、ここに」
ミレイユが胸元から革表紙の帳面を出した。よく知っている帳面だった。三年、毎晩めくった。角が擦り切れているのも、二十六ページに蜜をこぼした染みがあるのも同じだ。
ただし、開かれたページの字は、セレナの字ではなかった。
似せてある。癖の強い「7」の書き方まで真似てある。だが線が均一すぎた。疲れた夜の字と、朝の字が同じ濃さで並んでいる。人間はそんな書き方をしない。
この帳面は、一日で書かれたものだ。
喉まで出かかった。けれど、それを言えば筆跡の鑑定になる。鑑定を頼むのは組合で、組合の理事はガレル師で、証人になるのは工房の職人たちだ。彼らの給金はガレル師が払っている。
勝てない。
いま口を開いても、勝てない。
セレナは頭の中で、自分の言葉を封じた。
「見習いの分際で献上の場を汚したことを、お詫び申し上げます」ガレル師が王妃に向かって腰を折った。「工房の管理不行き届きにございます」
王妃は何も言わなかった。ただ扇を閉じ、瓶を侍従に渡した。
それで終わりだった。
三日後、セレナは工房を除名された。書面は届かず、朝行くと鍵が変わっていた。
同じ日の午後、調香師組合の名簿から彼女の登録が消えた。理由の欄には「素行」とだけ書かれていた。素行という言葉は便利だ。反証のしようがない。
私物を取りに戻ることは許された。監視付きで、四半刻だけ。
自分の作業台にはもう、別の見習いの前掛けが掛かっていた。セレナは棚の下段を開け、処分品と書かれた木箱をひとつ引き出した。中身は、香りが飛んだと判断されて捨てられる予定の原料――割れた没薬の粒、変色した安息香の塊、油の抜けかけた柑橘の乾皮。
「それ、ゴミですよ」見張りの職人が言った。
「ええ」
セレナは箱の蓋を閉じ、両腕で抱えた。ゴミだ。彼らにとっては。
門を出るとき、ミレイユが二階の窓からこちらを見ていた。目が合った。義姉は少しだけ首を傾げて、それから窓を閉めた。勝ち誇るでもなく、後ろめたそうでもなく、片づけの済んだ部屋を確認する顔だった。
セレナは何も言わなかった。捨て台詞は安い。一度吐けば、それが最後の言葉になってしまう。
王都の東門で、隊商の荷が積み替えられていた。
貼り紙が柱に一枚。辺境交易都市アルシェ、アーデンフェルト商会。香料の目利きを求む――報酬応相談、資格不問。
資格不問。
セレナは箱を抱え直した。腕の中で、割れた没薬が乾いた音を立てる。
あの香りを、ミレイユは再現できない。記録帳を写しても無理だ。あの帳面には配合しか書いていない。柑橘の乾皮をどこの誰から、どの季節に買っているか。その一行だけは、書いていない。
覚える必要がなかったからだ。仕入れに行くのは、いつも自分だった。
――原料の仕入れ先は、私しか知らない。
セレナは門をくぐった。




