第五十二話 師
第五十二話 師
ガレル師は、宿ではなく商会に入った。
供の二人は荷を持って別棟へ回った。それだけで、この訪問が誰の招きかがわかった。
セレナは三階の物置にいた。窓から中庭が見える。
「顔を合わせるか」ラウルが戸口に立った。
「まだです」
「いつまで待つ」
「向こうが名乗るまで」彼女は言った。「あの人は、必ず自分から呼びます」
呼び出しは、昼過ぎに来た。
使いに来たのはミレイユだった。まだ顔色が悪い。二階の空き部屋から降りてきて、階段の下でセレナを待っていた。
「お父さまが、あなたに会いたいと」
「どちらで」
「客間です」
セレナは頷いた。
「お姉さま。一つ伺います」
「――なに」
「三年前、お父さまは王都から離れられたことがありますか」
ミレイユの目が動いた。
「――夏に」
「どちらへ」
「療養だと聞きました」義姉は言った。「一月ほど、家を空けました」
セレナは、手すりを掴んだ。
三年前の夏。王都訛りの男が、桟橋の下で灰華を買い占めた季節だ。
「行き先は」
「聞いておりません」
「では、戻られたとき、荷物は増えていましたか」
ミレイユは、しばらく考えた。
「――箱を一つ」
「中身は」
「見ていません」義姉は言った。「ですが、あれから、お父さまは調香室に一人で入るようになりました」
「それまでは」
「わたくしも入れました」
セレナは、階段を降りた。
客間に入ると、ガレル師は椅子に座っていた。
三月で、老けていた。頬がこけ、手が膝の上で震えている。だが、目だけは変わっていなかった。人を上から見る目だ。
「セレナ」
「お久しぶりです」
「元気そうだな」
「はい」
彼女は立ったままだった。
「座りなさい」
「立っております」
師の眉が動いた。
「――変わったな」
「三月ありましたので」
ガレルは震える手を組んだ。
「単刀直入に言おう」彼は言った。「工房に戻りなさい」
セレナは、動かなかった。
「登録は元に戻す」師は言った。「私が理事だ。手続きは一日で済む」
「理由を伺っても」
「工房が立ち行かん」
「はい」
「お前が抜けて三月だ」ガレルは言った。「作れる者がいない。注文は返し続けている」
「そうでしょうね」
彼女は窓辺に立った。
「『黎明』は、再現できましたか」
「できん」
「柑橘の乾皮は」
「日陰干しだということまではわかった」師は言った。「だが、仕入れ先がわからん」
「三軒です」セレナは言った。「王都南郊の、南斜面の三軒。名前も、屋号も、私は全部覚えています」
ガレルの手が、膝の上で止まった。
「――教えろ」
「お断りします」
「セレナ」
「お師匠さま」彼女は振り返った。「三月前、あの場で、あなたは何とおっしゃいましたか」
老人は答えなかった。
「下がりなさい、と」セレナは言った。「それだけです」
「――あれは」
「弁明は結構です」彼女は言った。「私が伺いたいのは、別のことです」
彼女は窓辺から離れた。
「三年前の夏、どちらへ行かれましたか」
ガレルの顔が、変わった。
「――何の話だ」
「一月、王都を離れられたと伺いました」セレナは言った。「療養だと」
「そうだ」
「どちらの療養地ですか」
老人は答えなかった。
セレナは、その沈黙を数えた。
「アルシェですね」
「――違う」
「三年前の夏、この街で、王都訛りの男が灰華を買い占めています」彼女は言った。「頭巾をかぶって、顔を見せずに、銀貨十二枚を置いていったそうです」
「知らん」
「その秋、この商会に偽の目利きが来ました」セレナは言った。「デュランと名乗りましたが、王都に登録のない名前です」
「知らんと言っている」
「その冬、仲介した王都の仲買が川に落ちて死にました」
ガレルの手が、膝の上で震えた。
震えは病気のものだった。だが、その震え方が変わったのを、セレナは見た。
「お師匠さま」彼女は言った。「あなたの手が震えはじめたのは、四年前です」
「――そうだ」
「調香ができなくなった」
「ああ」
「その翌年、あなたは灰華を買いに来た」
部屋が静かになった。
老人は、窓の方を見た。
「――何のためだと思う」
セレナは、しばらく答えなかった。
考えたことは何度もあった。だが、答えが出ていなかった。
「わかりません」
「わからんか」
「はい」
ガレルは、震える手を持ち上げた。
「これだ」
セレナは、その手を見た。
「四年前、私は瓶を落とした」老人は言った。「蒸留の途中でな。温度を見ていた手が、勝手に動いた」
「はい」
「それから、二度と合わせられなくなった」
彼は手を下ろした。
「調香師が手を失うというのは、そういうことだ」ガレルは言った。「頭にはある。全部ある。だが、出せない」
セレナは、動かなかった。
「私は、四十年やってきた」老人は言った。「四十年だ。それが、一日で終わった」
「――それで」
「鼻を失う薬があると聞いた」ガレルは言った。「南方の、目録にないものだと」
セレナは、背筋が冷えた。
「まさか」
「自分に使うつもりだった」
部屋の空気が止まった。
「手が動かんのに、鼻だけが残っている」老人は言った。「毎日、弟子が作るものが全部わかる。どこが足りないか、何を入れるべきか、全部わかる。だが、自分では作れん」
彼は、震える手を見た。
「拷問だ」
セレナは、何も言えなかった。
「だから、消そうと思った」ガレルは言った。「鼻さえ消えれば、楽になる」
「――使われましたか」
「使えなかった」
老人は、乾いた声で笑った。
「三年、机の引き出しに入っている」彼は言った。「毎晩、開けて、閉める」
セレナは、椅子の背を掴んだ。
「では、偽の目利きは」
「知らん」ガレルは言った。「本当に知らん。私は灰華を買いに来ただけだ」
「仲買の死は」
「知らん」
「王都の組合の印は」
老人の顔が、はじめて動いた。
「――印?」
「アルシェの組合の倉に、王都の印で封が貼られています」セレナは言った。「本物です」
「私は押していない」
「持ち出せるのは理事だけです」
「理事は七人いる」ガレルは言った。「私は今月の当番ではない」
「では、どなたが」
老人は、しばらく黙った。
それから、掠れた声で言った。
「――書記長だ」




