第五十一話 楔
第五十一話 楔
翌朝、ラウルは台所に降りた。
セレナは階段の途中で足を止めた。ついていくべきかどうか迷って、行かないことにした。これは、あの人が一人で決める話だった。
半刻ほどして、彼が上がってきた。
「辞めさせなかった」
「はい」
「訊かなかったのか」
「訊きません」セレナは言った。「あなたが決めることです」
ラウルは事務室の椅子に座った。
「灰華をやめろと言った」彼は言った。「二十番もだ。今日から、鍋には何も入れるなと」
「ネリさんは」
「泣いた」
彼は机の上で指を組んだ。
「それから、こう言った。坊ちゃまが召し上がらなくなったら、どうすればよろしいですか、と」
セレナは、その光景を思い浮かべた。
六年、毎朝、竈の前で選び直してきた人の問いだった。
「なんとお答えになりましたか」
「不味かったら不味いと言う、と答えた」ラウルは言った。「六年ぶりに味がわかるんだ。文句を言えるようになった」
彼は、少しだけ笑った。
「あれは、そういう返事を待っていたんだろう」
その日の昼、ヴィオラが事務室に来た。
手に、南からの返事を持っていた。もう何度も読み返したらしく、紙の縁が柔らかくなっている。
「兄さま。わたくしが、叔父さまに会います」
ラウルが顔を上げた。
「駄目だ」
「兄さまが行けば、喧嘩になります」娘は言った。「セレナさんが行けば、取引になります。わたくしが行けば、話になります」
「何を話す」
「寝具のことです」
セレナは筆を止めた。
「――ヴィオラ様」
「叔父さまは、昨夜まで知らなかったのですよね」娘は言った。「二経路あることを」
「知りませんでした。あの驚き方は、演技ではありません」
「では、叔父さまは今、こう考えておられます」ヴィオラは言った。「自分は甥を守るつもりで灰華を使った。ところが、同じ時期に、別の誰かが同じものを寝台の下に置いていた」
彼女は紙を膝に置いた。
「そして、それを置かせたのが兄――ご自分の兄だと知ったら」
ラウルが立ち上がった。
「――利用されていた、と気づく」
「はい」
セレナは、ゆっくりと息を吐いた。
筋は通っていた。通りすぎているほどに。
「ヴィオラ様。それは楔です」彼女は言った。「叔父さまと、亡くなった先代の間に打つ楔です」
「わかっております」
「打てば、叔父さまは崩れます」セレナは言った。「二十年、自分は姉との約束を守ってきたと思っておられる。その二十年が、兄に使われていただけだったとしたら」
「崩れます」
「崩れた人が、どう動くかはわかりません」
ヴィオラは、紙を握った。
「わかっております」彼女は言った。「ですが、わたくしは六年、叔父さまの手紙を読んできました」
「はい」
「二百通、同じことしか書いてありませんでした」娘は言った。「体を大事にしなさい。香に触れてはいけません。思い出そうとしてはいけません」
彼女は顔を上げた。
「あれは、怖がっている人の文です」
条件は、セレナが三つ決めた。
一つ、中庭で会うこと。書斎には入らない。
二つ、二刻を過ぎたら、ラウルが呼びに行くこと。
三つ、ヴィオラは何も持っていかないこと。証拠も、手紙も、匣も。
「なぜですか」娘が訊いた。
「持っていけば、取引になります」セレナは言った。「今日は話をしに行くのですから」
申し入れは、その日のうちにボリスが運んだ。
返事は、夕方に来た。
――いつでも。
ヴィオラが中庭へ出たのは、日が落ちてすぐだった。
セレナとラウルは、母屋の二階の窓から見ていた。
中庭の石畳に、二つの影があった。片方が背を丸めている。もう片方は、動かない。
声は聞こえない。
半刻。
一刻。
やがて、背の高い方の影が、石畳に膝をついた。
ラウルが窓枠を掴んだ。
「――叔父が」
「動かないでください」
「膝をついている」
「動かないでください」セレナは言った。「今、あの二人の間には誰も入れません」
ヴィオラは、立ったままだった。
そして、しばらくしてから、屈んだ。
二つの影が、同じ高さになった。
娘が戻ってきたのは、二刻の少し前だった。
顔は濡れていた。だが、歩き方はしっかりしていた。
「話しました」
「叔父は」ラウルが言った。
「全部、聞かれました」ヴィオラは椅子に座った。「寝具のこと。ネリのこと。父が指示したこと」
「なんと言った」
娘は、しばらく黙った。
「――知らなかった、と」
「それだけか」
「それから、こうおっしゃいました」
彼女は目を拭った。
「私は、二十年、兄の見張りをしていたつもりだった、と」
セレナは、机の縁を握った。
「見張り、ですか」
「はい」ヴィオラは言った。「叔父さまは、荷を受け取ることで、兄に渡らないようにしていたと思っておられました。年に三度の荷を全部自分が握れば、兄は手に入れられない、と」
「ですが、渡っていた」
「渡っていました」娘は言った。「ネリを通じて。叔父さまの知らないところで」
彼女は顔を上げた。
「叔父さまは、六年前に甥の食事に灰華を入れさせました。守るためだと思って」
「はい」
「そのすぐ後に、父が同じものを寝台の下に置かせました」ヴィオラは言った。「叔父さまが動いたのを見て、その陰に隠れたのです」
ラウルが、椅子に沈んだ。
「――親父は、叔父を隠れ蓑にしたのか」
「はい」
「二十年」
「二十年です」
部屋が静かになった。
セレナは窓の外を見た。中庭の影は、もういなかった。
「ヴィオラ様。叔父さまは、これからどうされると」
「わかりません」娘は言った。「ですが、一つだけ、おっしゃいました」
「なんと」
ヴィオラは、両手を膝の上で組んだ。
「――王都から、明日、人が来る、と」
便船が着いたのは、翌日の朝だった。
霧が薄い。桟橋に人が降りてくる。
セレナは荷役の上着を着て、空樽の陰から見ていた。
三人。二人は供の者で、真ん中に一人。
外套の裾が長い。杖をついている。
その男が、桟橋の板に降り立った。
顔が上がる。
セレナは、樽の縁を掴んだ。
三月ぶりだった。
ガレル師が、この街に来た。




