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奪われた香りは、私のものです ~王家御用達の調香師見習いは、追われた辺境で自分の工房を持つことにした~  作者: やまご


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第五十話 同じ月

 ネリは、竈の縁に腰を下ろした。

 立っていられなくなったのではない。話を長くするつもりの座り方だった。

「わたしの母は、奥さまの身の回りを見ておりました」彼女は言った。「髪を結い、着替えを手伝い、寝室を整える。十年、そればかりです」

「十六年前に亡くなられた」セレナは言った。

「はい」

「病気ですか」

「そう聞かされました」ネリは言った。「わたしは八つでしたので、それ以上は」

 彼女は火箸で灰をならした。

「ですが、覚えていることが一つあります」

 ラウルが階段の下で立ち止まった。

「言え」

「母は、亡くなる前の月に、寝室から出てこなくなりました」娘は言った。「奥さまの寝室ではありません。母自身の部屋です」

「なぜだ」

「わかりません」ネリは言った。「ただ、扉の前を通ると、匂いがしました」

 セレナは戸口の柱を掴んだ。

「――どんな」

「甘い匂いです」娘は言った。「わたしは子どもでしたので、菓子でも隠しているのかと思いました」

 台所が静かになった。

 甘い。粘る。喉に絡む甘さ。

 十一番だ。

「その匂いを、あなたは覚えておられるのですね」セレナは言った。

「覚えております」

「六年前、書斎で焚いた粉は」

「同じ匂いでした」

 ネリは顔を上げた。

「ですから、わたしはあの粉が何をするか、知っておりました」


 ラウルが階段を降りきった。

「知っていて、焚いたのか」

「はい」

「妹に」

「お嬢さまがおられるとは、知りませんでした」娘は言った。「壺に混ぜておけと言われていました。誰が来るかは、聞いておりません」

「――混ぜておけ」

「はい。常に混ぜておけと」

 セレナは、その言葉を掴んだ。

「常に、ですか」

「はい」

「では、あの部屋は六年前から」

「五年ほど、混ざっておりました」ネリは言った。「わたしが辞めるまでは、わたしが。辞めてからは、別の者が同じことを続けております」

「知らずに?」

「壺に最初から混ぜてあれば、焚く者は知りません」娘は言った。「匙で落とすだけですので」

 セレナは、目を閉じた。

 ヘルマンが年に四度、乳香と白檀と丁子を調合して納める。誰かがそれを受け取り、混ぜる。使用人が匙で落とす。

 混ぜる人間だけが知っていればいい。

「――ミレイユお姉さまが、三日通われました」

「はい」

「あの方も」

「軽くは、受けておられます」ネリは言った。「ですが三日です。奥さまは三年、お嬢さまは九本でした」


 ラウルが竈の前に立った。

「ネリ」

「はい」

「なぜ今、話す」

 娘は火箸を置いた。

「三月前、セレナ様が別棟の香料を止めろとおっしゃいました」彼女は言った。「わたしは断りました。切らしております、と嘘を申しました」

「覚えている」

「あのとき、はじめて、断ってよいのだと知りました」

 彼女は膝の上で手を握った。

「六年間、わたしは坊ちゃまのお鍋に灰華を入れておりました」ネリは言った。「同じ鍋に、食欲の出る粉も入れておりました」

「――二十番か」

「番号は存じません。旦那さまが、これも入れろと」

「親父が」

「はい」娘は言った。「壊すものと、生かすものを、両方入れろと」

 セレナは、柱から手を離した。

 六年、この娘は毎日、その両方を鍋に入れていた。

「ネリさん」彼女は言った。「あなたは、どちらのつもりで入れておられましたか」

 娘は、はじめて顔を歪めた。

「――わかりません」

「わからない?」

「毎朝、鍋の前で決めておりました」ネリは言った。「今日は入れずにおこうか、と。ですが、入れないと坊ちゃまが召し上がりません」

「食欲の粉だけ入れれば」

「灰華を抜けば、旦那さまに知れます」娘は言った。「知れれば、わたしは辞めさせられます。辞めさせられれば、坊ちゃまのお鍋を作る者がいなくなります」

 彼女は顔を上げた。

「わたしが辞めれば、坊ちゃまは、また召し上がらなくなります」

 台所が、静まり返った。

 セレナは、その理屈の形を見た。

 毒を入れ続けることが、この人にとっては生かすことだった。六年、毎朝、竈の前でそれを選び直していた。

 ――誰が悪いのか、簡単には言えない。

「ネリ」ラウルが言った。

「はい」

「親父は、なぜ寝台の下にも置かせた」

 娘は少し黙った。

「一度、伺いました」

「なんと」

「旦那さまは、こうおっしゃいました」

 彼女は言った。

「――弟の手が足りないときのためだ、と」

 ラウルの顔が、こわばった。

「――手が足りない?」

「わたしにも、意味がわかりませんでした」ネリは言った。「ですが、そう言われました」

 セレナは、頭の中でそれを回した。

 弟の手が足りないとき。

 ジョスランは食事に入れさせていた。父はそれを知っていた。知っていて、寝具にも置かせた。

 ――保険だ。

 食事の経路が止まっても、寝具が残る。

 だが、それだけではない。

「ラウル様」彼女は言った。「先代は、叔父さまが途中でやめると思っておられたのではないでしょうか」

 彼が振り返った。

「――やめる?」

「叔父さまは、あなたを守るつもりで灰華を使いました」セレナは言った。「守るつもりの人間は、相手が安全になったと判断すれば、やめます」

「親父は、それを許さなかった」

「はい」

 彼女は戸口に手をついた。

「先代は、あなたの鼻が戻ることを許さなかった」

 ラウルは、竈の火のない口を見下ろした。

「――なぜだ」

「わかりません」

「俺は、あの人の息子だぞ」

「はい」

「母を潰して、俺を潰して、妹を南へやって」彼は言った。「何がしたかった」

 セレナは、答えを持っていなかった。

 だが、一つだけ思い当たることがあった。

「ラウル様」彼女は言った。「先代は、四年前に亡くなっています」

「そうだ」

「ですが、寝具の袋は、六年間ずっとありました」

 彼が顔を上げた。

「――四年前に死んだ人間の指示が、二年続いた」

「はい」

 セレナはネリを見た。

「ネリさん。先代が亡くなられてから、誰が指示を出しておられましたか」

 娘は、火箸を握った。

「――どなたも」

「では、なぜ続けられたのですか」

「言われておりましたので」

「誰に」

「旦那さまに」ネリは言った。「亡くなる前に、こう言われました」

 彼女は顔を上げた。

「私が死んでも、続けろ。やめれば、お前の母と同じことになる、と」


 その夜、四人が事務室に集まった。

 ヴィオラは黙って話を聞き、それから兄の手に触れた。

「兄さま。父は、母を殺したのですね」

「――叔父は、そう言った」

「わたくしは、信じます」娘は言った。「叔父さまの言葉ではなく、ネリの話を」

 セレナは机の上に紙を置いた。

 これまでのことを、順番に書き出したものだ。

「先代は、二十年前から荷を欲しがっていました」彼女は言った。「お母様はそれを拒み、南の林を守り、匣を持って北へ来た」

「そして潰された」

「はい。三年かけて鼻を奪われ、亡くなりました」

 彼女は次の行を指した。

「その翌年、先代が受け取りました。例年の三倍です」

「一年で交代した」

「叔父さまが取り上げたのだと思います」セレナは言った。「お母様との約束を、この方は一年遅れで実行しました」

 ラウルが顔を上げた。

「――遅れて」

「はい」彼女は言った。「一年、動けなかった。あるいは、一年かけて決心した」

 セレナは紙をめくった。

「それから十五年、叔父さまが受け取り続けました」

「なぜ焙った」

「わかりません」彼女は言った。「ですが、焙らなければ渡せなかったのかもしれません」

「誰に」

「先代です」

 部屋が静かになった。

「叔父さまが受け取っても、先代が生きている限り、要求は続きます」セレナは言った。「渡さなければ、どうなりますか」

 ヴィオラが顔を上げた。

「――わたくしたちが」

「はい」

 彼女は紙を置いた。

「十五年、叔父さまは兄に少しずつ渡しながら、全部は渡さなかったのだと思います」セレナは言った。「そして六年前、兄が寝ついた。当主が甥に移る」

「――俺だ」

「あなたです」

 ラウルは机に手をついた。

「叔父は、俺を守るために鼻を潰した」

「そう言いました」

「親父は、それを利用して、俺の鼻を二度と戻らなくした」

「そう見えます」

 彼は目を閉じた。

「――どっちも、俺の家族だ」

 セレナは、何も言わなかった。

 窓の外で、河の音がしていた。

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