第四十九話 もう一人
中庭の風が、止まっていた。
セレナは、男の顔を見ていた。
「ご存じなかったのですね」
ジョスランは答えなかった。
彼は石畳の上で、はっきりと考え込んでいた。指が外套の裾を握っている。三月間、この男が動揺を見せたのは、これがはじめてだった。
「――食事の方は、ご存じでしたか」
「知っていた」
あっさりと認めた。
セレナは息を詰めた。
「あなたが」
「私が指示した」ジョスランは言った。「六年前だ」
「なぜ」
男は月を見た。
「兄が死にかけていた」彼は言った。「四年前に死んだが、その前から寝ついていた。当主は甥に移る」
「はい」
「甥は二十一だった」ジョスランは言った。「交易しか知らない小僧だ。そして母親の血を引いている」
セレナは、その言葉の意味を掴んだ。
「――香がわかる、ということですか」
「あの家系はそうだ」男は言った。「姉がそうだった。妹もそうだ。甥も、鼻だけは良かった」
「では」
「甥が当主になれば、いずれ荷に気づく」ジョスランは言った。「気づけば、調べる。調べれば、姉と同じ道を辿る」
彼は振り返った。
「――守ったつもりだ」
セレナは、しばらく声が出なかった。
「守るために、鼻を潰したのですか」
「潰しておけば、気づかん」男は言った。「気づかなければ、調べん。調べなければ、死なん」
「――六年です」
「六年生きた」
彼女は、拳を握った。
「あの方は、六年間、街から切れていました」セレナは言った。「宴に出られない。人と食事ができない。荷検めと帳簿だけの生活です」
「生きている」
「生きているだけです」
ジョスランは、答えなかった。
セレナは、一歩踏み出した。
「妹さんはどうですか」彼女は言った。「六年、南に閉じ込められて、記憶を失って、自分のせいだと思い続けておられました」
「あれは、私ではない」
「では、誰ですか」
男の顔が、変わった。
「――あれは、事故だ」
「事故ではありません」セレナは言った。「六年前、あなたは書斎でヴィオラ様に空の匣を見せました。柑橘で鼻を慣らして、十一番を焚いた部屋でです」
「――焚いていない」
「焚かれています」
「私は焚いていない!」
声が中庭に響いた。
セレナは動きを止めた。
この男は、嘘をつくときに声を荒げる種類の人間ではない。三月見てきて、それはわかっていた。
「――叔父さま」
「私は、あの子に匣を渡した」ジョスランは言った。「祭の香を作らせるためだ。姉の匣を、姉の娘に渡した。それの何が悪い」
「中身に灰華が入っていました」
「入っていた」
「教えずに、渡されました」
「――教える必要が」
「十七の娘に、名前のない薬を三つ渡したんです」セレナは言った。「自分で確かめなさいと」
男は口を開き、それから閉じた。
「あの子は、九本試しました」彼女は言った。「九回、嗅ぎました」
ジョスランの顔が、白くなった。
「――九本」
「ご存じなかったのですか」
「私は」
「あなたは、匣を渡しただけだと思っておられる」セレナは言った。「ですが、渡した相手は十七でした」
男は石畳に目を落とした。
長い沈黙があった。
「――あの日」やがて彼は言った。「あの子が組合から出てきたとき、私は書斎へ連れていった」
「はい」
「空の匣を見せて、姉のことを話した」
「はい」
「それだけだ」ジョスランは言った。「話が終わって、あの子は帰った。翌日、倒れたと聞いた」
「翌日」
「そうだ」
セレナは、頭の中で日付を並べ直した。
ヴィオラの記憶は、書斎を出たところで途切れている。
だが、倒れたのは翌日だ。
――間に、一日ある。
「叔父さま」彼女は言った。「その日、書斎に香は焚かれていましたか」
「焚いていた」
「どなたが」
「使用人だ」
「その方は、今も別棟におられますか」
ジョスランは、しばらく考えた。
「――いや」
セレナは顔を上げた。
「六年前に辞めた」男は言った。「あの子が倒れたのと、同じ月だ」
「名前は」
「覚えていない」
「思い出してください」
「――ネリ、と言ったか」
中庭の音が、消えた。
セレナは動けなかった。
「ネリ」彼女は言った。「今、商会の台所にいる女中です」
ジョスランの顔が上がった。
「――母屋にいるのか」
「六年前から、ラウル様の食事を作っています」
商会の土間に駆け込んだのは、四半刻後だった。
ラウルが立ち上がった。
「二刻前だぞ。まだ――」
「ネリさんは」
「台所だ」
セレナは階段を降りた。
半地下の台所は、火が落ちていた。マルタは既に休んでいる。
ネリは、竈の前に一人でいた。
振り返った。
その顔が、いつもと違った。怯えていなかった。
「――お帰りなさいませ」
「ネリさん」セレナは戸口で止まった。「六年前、あなたは別棟におられましたね」
娘は、竈の灰を掻いていた手を止めた。
「はい」
「書斎の香を焚いておられた」
「はい」
「その年に辞めて、母屋の台所に移られた」
「はい」
ネリは、隠さなかった。
セレナは、背筋が冷えるのを感じた。
「なぜですか」
「坊ちゃまが、食べられなくなったからです」
娘は灰を掻き終えて、火箸を置いた。
「六年前、坊ちゃまの鼻が壊れました」ネリは言った。「半年で骨と皮になられました」
「――はい」
「わたしが、そうしたからです」
台所が静かになった。
「書斎で、わたしが焚きました」娘は言った。「ジョスラン様に言われた通りに、壺の香を匙で落として、それから――別の粉を、少しだけ」
「誰に言われましたか」
「ジョスラン様です」
「では、なぜあの方は知らないと」
「粉のことは、ご存じありません」ネリは言った。「壺に混ぜておくよう言われたのは、別の方です」
セレナは、戸口の柱を掴んだ。
「――どなたですか」
娘は顔を上げた。
「先代の、旦那さまです」
背後で、階段の板が鳴った。
ラウルが立っていた。
「――親父が」
「はい」ネリは言った。「寝ついておられた頃です。わたしは寝室に呼ばれました」
「六年前、親父はもう動けなかったはずだ」
「動けませんでした」娘は言った。「ですが、話せました」
彼女は火箸を持ち直した。
「旦那さまは、こうおっしゃいました。ジョスランが甥の食事に何かを入れる。そのとき、寝台の下にも同じものを置け、と」
セレナは、息を止めた。
「――なぜ」
「言われませんでした」ネリは言った。「わたしは、旦那さまに逆らえません」
「なぜです」
娘は、はじめて目を伏せた。
「わたしの母が、この家で働いておりました」彼女は言った。「奥さまの、身の回りの世話をしていました」
ラウルが階段を降りてきた。
「――母の」
「はい」ネリは言った。「わたしの母は、十六年前に亡くなりました。奥さまと同じ年です」
彼女は火箸を灰に立てた。
「同じ月です」




