第四十八話 読ませる
策は、三日かけて組んだ。
中心にいたのは、意外にもヴィオラだった。
「叔父さまは、説明したがっておられます」娘は言った。
セレナは筆を止めた。
「――説明」
「六年前もそうでした」ヴィオラは言った。「わたくしを書斎へ連れていって、空の匣を見せて、母のことを話されました。あれは、脅しではありません」
「では、何ですか」
「言い訳です」
娘は膝の上で手を組んだ。
「叔父さまは、自分が正しいと思っておられます」彼女は言った。「母の遺志を継いだのだと。ですから、それをわかってくれる相手を探しておられます」
ラウルが顔を上げた。
「――そんな男か」
「六年、手紙を読んできました」ヴィオラは言った。「二百通、同じことしか書いてありません。体を大事にしなさい。香に触れてはいけません。思い出そうとしてはいけません」
「命令だろう」
「命令の形をした、心配です」娘は言った。「本当に消したければ、手紙など書きません」
セレナは、その言葉を頭の中で転がした。
――六年間、週に一度から月に一度、同じことを書き続ける。
監視のためだけなら、人を置けば済む。実際、監視の人間は三人いた。
それでも文を書いた。
「ヴィオラ様」彼女は言った。「叔父さまは、あなたを可愛がっておられましたか」
娘は、しばらく黙った。
「――子どもの頃は」
「はい」
「母が亡くなってから、よく面倒を見てくださいました」ヴィオラは言った。「兄さまは交易の修業で忙しく、父は――父は、わたくしを見ませんでした」
ラウルが顔を上げた。
「親父は、お前を」
「一度も抱かれた記憶がありません」娘は言った。「母に似ていたからだと、後で聞きました」
策の形は、こうだった。
セレナが、もう一度別棟へ行く。
ただし今度は、匣の話をしない。
母の話をする。
「危険すぎる」ラウルが言った。
「危険です」セレナは認めた。「ですが、あの方が私を殺さない理由が一つあります」
「なんだ」
「まだ、わかってもらえていないからです」
彼女は椅子に座り直した。
「三月前、あの方は私に灰華を見せました」セレナは言った。「見せる必要はありませんでした。証拠にならないから見せた、と私は思っていました」
「違うのか」
「見せたかったんです」彼女は言った。「私は、この街で唯一、あれが何かわかる人間です」
ラウルの表情が変わった。
「――自慢したのか」
「近いと思います」セレナは言った。「二十年、誰にも話せなかった人が、話せる相手を見つけた」
彼女は窓の外を見た。
「あの方は、私を測っています。三月ずっと」
「測って、どうする」
「わかりません」彼女は言った。「ですが、測る相手を殺すのは、最後です」
実行は、四日後の夜になった。
条件は三つ、セレナが決めた。
一つ、書斎ではなく、中庭で会う。
二つ、こちらから話題を出さない。
三つ、二刻を過ぎたら、ラウルが呼びに来る。
「中庭を指定して、通るか」ラウルが言った。
「通ります」セレナは言った。「書斎でなければ話せない理由を、あの方は認めたくないはずです」
申し入れは、ボリスを通した。
返事は翌日に来た。
――承知した。中庭で。
夜の中庭は、風があった。
石畳が乾いている。ジョスランは先に来ていた。外套を着て、月を見ていた。
「香のない場所を選ばれたか」
「はい」
「賢明だ」男は振り返った。「私も、あの部屋は好きではない」
セレナは立ったまま、頭を下げた。
「先日は、失礼いたしました」
「いや。面白かった」ジョスランは言った。「あの女は、あれから寝込んでいるそうだね」
「はい」
「気の毒に」
彼は、まったく気の毒に思っていない声で言った。
セレナは、それには応じなかった。
「今日は、伺いたいことがあって参りました」
「言いなさい」
「お母様――ラウル様のお母様は、どのような方でしたか」
ジョスランの動きが、止まった。
風が中庭を渡っていった。
「――なぜ、それを訊く」
「南へ行きました」セレナは言った。「山を見ました。段々畑と、その上の林を」
「見たか」
「林の樹皮に、傷がありました」彼女は言った。「木を殺さない切り方でした。二十年、正しく管理されています」
男は月を見上げた。
「――姉がやっていた」
「伺いました」
「誰に」
「南の、古い女中の方に」セレナは言った。「年に二度、ご自分で山へ入られたと。嫁がれてからも、年に一度は戻られたと」
ジョスランは、長く黙っていた。
「――四日かけてな」彼はやがて言った。「船に乗って、四日かけて南へ戻って、林の手入れだけをして、また四日かけて帰ってきた」
「毎年、ですか」
「毎年だ。二十年」
彼は外套の襟を直した。
「私は一度、ついていったことがある」ジョスランは言った。「十九のときだ。姉は三十を過ぎていた」
「どうでしたか」
「退屈だった」男は言った。「一日中、木に傷をつけている。それだけだ」
彼は少し笑った。
「私は途中で飽きて、町へ降りた」
セレナは、黙って聞いていた。
「夕方に戻ると、姉はまだ林にいた」ジョスランは言った。「日が暮れて、手元が見えなくなるまで切っていた」
「――なぜ、そこまで」
「訊いた」彼は言った。「姉はこう答えた」
男は月を見た。
「――この木は、私が死んだあとも生きているから」
中庭が静かになった。
セレナは、動かなかった。
「私は理解できなかった」ジョスランは言った。「十九だったからな」
「今は」
「今もだ」
彼は振り返った。
その顔が、月の光で半分だけ見えた。
「セレナ君。君は、姉が何をしていたと思う」
彼女は、少し考えた。
「守っておられたのだと思います」
「何をだ」
「山を」セレナは言った。「そして、山から出るものを」
ジョスランは、笑わなかった。
「――君は、あれを持ち出したと思っているのか」
「思っています」彼女は言った。「南に置いておけば、誰でも採れます。北へ持っていけば、一人が持つことになります」
「そして、その一人が死んだ」
「はい」
男は石畳を歩いた。二歩、三歩。
「姉は、私に頼んだ」彼は言った。「あの人には決して渡さないでくれと」
「あの人、とは」
ジョスランが足を止めた。
「――兄だ」
「先代の当主ですね」
「そうだ」
「なぜ、渡してはいけなかったのですか」
男は答えなかった。
セレナは、待った。
風が中庭を渡った。
「――兄は、姉に灰華を使った」
彼女は、息を止めた。
「いつからかは知らん」ジョスランは言った。「姉が気づいたのは、亡くなる三年ほど前だ」
「――お母様は」
「鼻がきかなくなった」男は言った。「調香ができなくなった」
セレナは、石畳に手をつきそうになった。
――同じだ。
六年前、息子に起きたことと。
「姉は、それを誰にも言わなかった」ジョスランは言った。「言えば、家が終わる。子どもが二人いた」
「――それで」
「三年、黙っていた」彼は言った。「その間に、私に手紙を書き続けた。荷を兄に渡すな、と」
男は振り返った。
「そして死んだ」
「病気ではなく」
「病気だ」ジョスランは言った。「本当に病気だった。だが、三年鼻を潰された人間が、どう弱っていくかは知らんよ」
セレナは、拳を握った。
「――叔父さま」
「なんだね」
「では、なぜ、ラウル様に同じことをされたのですか」
中庭の空気が、変わった。
ジョスランは動かなかった。
「――甥に?」
「六年前から、ラウル様の食事と寝具に灰華が入っていました」セレナは言った。「二経路です。私が止めました」
男は、しばらく黙っていた。
それから、はじめて――本当に驚いた顔をした。
「――二経路だと?」
「はい」
「寝具にも入っていたのか」
セレナは、その反応を見た。
演技ではない。
この男は、寝具のことを知らなかった。




