第四十六話 持ち帰るもの
セレナは、ミレイユを支えて別棟を出た。
中庭の石畳が、夜露で濡れている。義姉は三歩ごとに立ち止まった。
「――大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「歩けます」
「歩けても、大丈夫ではありません」
セレナは腕を支え直した。
母屋の玄関に、ラウルが立っていた。
「一刻半だ」彼は言った。「二刻で行くつもりだった」
「間に合いました」
「その人は」
「三日、あの部屋に通っておられました」セレナは言った。「マルタさんを呼んでください。水と、それから風の通る部屋を」
ラウルは頷いて、奥へ声をかけた。
ミレイユは、一階の客間ではなく、二階の空き部屋に移された。窓を二つ開け、寝台を窓辺に寄せる。
「――なぜ、あなたが」
義姉が枕から言った。
セレナは水差しを置いた。
「あの部屋に、匂いを消すものがありました」彼女は言った。「三日いれば、影響が出ます」
「何の影響」
「わかりません」セレナは言った。「ですが、頭が重いのは、そのせいです」
ミレイユは天井を見た。
「――わたくしを助けても、何にもなりません」
「そうですね」
義姉が目を動かした。
「あなたは、そう言うのですね」
「はい」セレナは言った。「私は、お姉さまを許していません」
部屋の空気が止まった。
「三月前、私は工房を追われました」彼女は言った。「登録を消されました。あれは、私の三年です」
「――ええ」
「お姉さまに事情があったことは、今日わかりました」セレナは言った。「ですが、事情があったからといって、私の三年が戻るわけではありません」
ミレイユは何も言わなかった。
「ですから、許しません」セレナは水差しの位置を直した。「ですが、あなたが今ここで倒れるのは、私の望むことではありません」
「――何が望みなの」
「返していただきます」彼女は言った。「私の名前を、あなたの口から」
義姉は、しばらく天井を見ていた。
「――王都で、ですか」
「王都で、公の場で」セレナは言った。「あの日と同じ場所で、同じだけの人の前で」
ミレイユは目を閉じた。
「わたくしは、破滅します」
「はい」
「工房も終わります」
「終わりません」セレナは言った。「弟子が七人います。作れる人間がいなくても、続けようとする人はいます」
彼女は立ち上がった。
「お姉さま。三万は借りられません。ラウル様は既に断っておられます」
義姉が目を開けた。
「――断られた?」
「三日前に」
「では、あの方は」
「叔父さまですね」セレナは言った。「あの方は、貸す権限をお持ちではありません」
ミレイユの顔が、白くなった。
「――では、わたくしは何のために」
「呼ばれたんです」セレナは言った。「三日、あの部屋に通わされました」
彼女は戸口に立った。
「お姉さま。お父さまは、今も王都におられますか」
「――います」
「手は」
「震えます」義姉は言った。「もう、瓶を持てません」
セレナは、しばらく黙っていた。
「三年前から、王都と別棟が繋がっています」彼女は言った。「そのことを、お父さまはご存じでしょうか」
ミレイユは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
事務室に上がると、ラウルとヴィオラが待っていた。
セレナは椅子に座り、水を一杯飲んでから話した。
空の匣。二十年分の手紙。そして、最後の一言。
「――父が」ラウルが言った。
「そう言われました」
「母を殺した?」
「はい」
彼は椅子に沈んだ。
ヴィオラが兄の手に触れた。
「兄さま。あれは、叔父さまの言葉です」
「わかっている」
「叔父さまは、六年前にも同じことをされました」娘は言った。「空の匣を見せて、母が持ち込んだとおっしゃった。わたくしは、それを六年信じました」
「――信じたのか」
「信じました」ヴィオラは言った。「証拠を見せられたと思ったからです。ですが、空の匣は何も証明しません」
彼女はセレナを見た。
「セレナさんが、今日そう言ってくださいました」
セレナは頷いた。
「ラウル様。あの手紙は、たぶん本物です」彼女は言った。「字が、匣の番号札と同じでした」
「では、母は本当に」
「一行だけ読まれました」セレナは言った。「あの人には決して渡さないでください、あなただけを信じます」
「――夫に渡すな、か」
「そう解釈できます」彼女は言った。「ですが、あの人が誰を指すかは、その一行だけではわかりません」
ラウルが顔を上げた。
「他に誰がいる」
「お母様が二十年、荷を受け取っていたなら、周りに何人もいたはずです」セレナは言った。「先代の当主。組合の理事長。仲買。それから、叔父さま自身」
「叔父が自分を指す手紙を読むか」
「読みません」彼女は言った。「ですから、あれは都合のいい一行を選んで読まれたものです」
彼女は机に手を置いた。
「二十年分あるなら、他の行もあります」
その夜遅く、ヘルマンが商会に来た。
組合の五十人を集めた、その報告だった。
「三十七人が来た」男は言った。「封が無効だという話をした」
「反応は」
「半分は信じない」ヘルマンは言った。「王都の印だ。無効と言われても、剥がす度胸のある者はいない」
「剥がさなくて結構です」セレナは言った。「知っていればいいのです」
「残りの半分は」男は続けた。「怒った」
「誰にですか」
「王都にだ」ヘルマンは言った。「五十軒の仕入れが止まって、王都に何の関係がある、と」
セレナは頷いた。
「それでいいのです」
彼女は椅子に座り直した。
「ヘルマン様。もう一つ、お願いがあります」
「言いなさい」
「別棟の書斎に、香の壺があります」セレナは言った。「出来合いのものを、匙で炉に落としているそうです」
「知っている」
セレナは顔を上げた。
「――ご存じですか」
「私が渡している」ヘルマンは言った。「年に四度、組合で調合して納めている」
部屋が静かになった。
「配合は」
「乳香、白檀、丁子」男は言った。「それだけだ」
「他には」
「入れていない」
「では、書斎で誰かが足しています」セレナは言った。「柑橘の匂いを打ち消すものが、あの部屋にありました」
ヘルマンは眼鏡を押し上げた。
「――打ち消す?」
「はい。私の袋のすっぱさだけが消えました」
男は、しばらく考え込んだ。
「香を潰す香というのは、聞いたことがない」彼は言った。「だが、鼻を鈍らせるものならある」
「灰華ですか」
「灰華は全部消える」ヘルマンは言った。「片方だけ消えるなら、別のものだ」
セレナは筆を取った。
「片方だけ消す方法を、ご存じですか」
「――一つだけ、思い当たる」
男は言った。
「同じ匂いを、強く先に置く」
セレナの手が止まった。
「――どういうことですか」
「柑橘の匂いを消したいなら、柑橘を先に濃く焚けばいい」ヘルマンは言った。「鼻は、同じ匂いに慣れる。慣れた匂いは、感じなくなる」
彼女は、椅子から立ち上がった。
「――柑橘が、あの部屋にありました」
「あったはずだ」
セレナは窓の外を見た。
三月前、あの部屋に入ったとき、自分は袋を持っていなかった。だから気づかなかった。
柑橘の匂いを濃く焚いて、鼻を慣れさせる。
その上で、柑橘の皮に吸わせた灰華を焚けば。
――気づかない。
「ラウル様」彼女は振り返った。「六年前、ヴィオラ様が書斎で記憶を失ったとき、あの部屋に十一番があったはずです」
ヴィオラが顔を上げた。
「――柑橘に混ぜて?」
「そうです」セレナは言った。「あなたは、柑橘の匂いに慣れさせられた上で、十一番を吸わされた」
娘は両手を握った。
「――道理で」
「はい?」
「書斎の香が、いつも柑橘くさいと思っていました」ヴィオラは言った。「乳香と白檀と丁子だけなら、あんなに甘くならないはずなのに」




