第四十五話 基準
すっぱさが消えている。
柑橘の並品は、そう簡単に飛ぶ匂いではない。三月前から売り続けて、一度もこうならなかった。
――消えたのではない。
消されている。
セレナは椅子から立った。
「窓を開けてください」
ジョスランの手が、蓋の上で止まった。
「――なんだね」
「この部屋の空気を入れ替えてください」彼女は言った。「でなければ、話を続けません」
男は微笑んだ。
「香が濃すぎたかね。すまない。私は昔から香を焚きすぎる」
「香ではありません」
セレナは襟元の袋を外し、机の上に置いた。
「これは私が作った香です。三月前から同じ配合で、二百個以上売っています」彼女は言った。「柑橘の並品と、乾いた根。すっぱくて、少し土の匂いがします」
「それが」
「今、すっぱさがしません」
ミレイユが振り返った。
「――セレナ」
「お姉さま、口を閉じて、浅く息をしてください」セレナは言った。「鼻から入れて、すぐ止めてください」
義姉は反射的に口を押さえた。
ジョスランは動かなかった。
「面白い言いがかりだ」男は言った。「香が濃ければ、弱い匂いは沈む。それだけのことだろう」
「沈むなら、全部沈みます」セレナは言った。「私の袋は、すっぱさが消えて、土の匂いだけが残っています。片方だけ消えるのは、沈んだのではありません」
「では何かね」
「潰されています」
彼女は机の縁に手を置いた。
「柑橘の匂いを打ち消すものが、この部屋にあります」
ジョスランは、しばらく彼女を見ていた。
それから、匣から手を離した。
「――君は、本当に鼻がいい」
「窓を」
「開けよう」
男は自分で窓に歩き、掛け金を外した。
夜の風が入ってきた。
セレナは深く吸った。中庭の苔。濡れた石。それから――遅れて、襟元のすっぱさが戻ってきた。
彼女は袋を拾い上げ、握った。
「ミレイユお姉さま」
「――はい」
「立てますか」
義姉は立ち上がろうとして、椅子の肘掛けを掴んだ。
「――頭が、少し」
セレナは彼女の腕を取った。
「三日、この部屋に通われましたね」
「毎日、夕方に」
「今日は、いつからここに」
「一刻ほど前です」
セレナはジョスランを見た。
「この方は、私が来る前から座っておられました」
「客だからね」
「一刻、この部屋に一人でおられた」彼女は言った。「あなたが席を設けたのは、私のためではありません」
男は窓辺に立ったまま、振り返らなかった。
「セレナ君」
「はい」
「君は、何を持って帰るつもりでここへ来た」
セレナは義姉の腕を支えたまま、答えた。
「二つ目の匣が実在するかどうかです」
「見せたが」
「見ました」彼女は言った。「六年前、あなたはヴィオラ様に、空の匣を見せた。今日は中身の入った匣を見せようとした。それだけで充分です」
ジョスランが振り返った。
その顔から、はじめて笑いが消えていた。
「――妹が喋ったか」
「はい」
「六年、思い出さなかったものを」
「思い出しました」セレナは言った。「昨日です」
男は机に戻り、匣の蓋に手を置いた。
「ならば、話が早い」
彼は蓋を開けた。
セレナは息を止めた。
だが、匣から匂いは立たなかった。
中には、瓶が並んでいた。二十四本。番号札がついている。
どれも――空だった。
「空です」
「そう」ジョスランは言った。「三月前に南から届いたときは、入っていた」
「中身は」
「使った」
彼は蓋を閉じた。
「私は君に、これを見せたかった」男は言った。「君が三月かけて追ってきたものは、もう存在しない」
セレナは、匣を見ていた。
二十四本、空。
――使い切った。
六年前、この男はヴィオラに空の匣を見せて、母が使い切ったと言った。
今、同じことをしている。
「同じ手ですね」彼女は言った。
ジョスランの眉が動いた。
「六年前、あなたはヴィオラ様に空の匣を見せて、母が使い切ったと言いました」セレナは言った。「今日は私に空の匣を見せて、自分が使い切ったと言う」
「事実だ」
「事実かどうかはわかりません」彼女は言った。「空の匣は、何も証明しません。空だったのか、空にしたのか、最初から入れていないのか」
男は、じっと彼女を見た。
「――君は、面倒な人間だな」
「はい」
「三年前、王都から来た男は、もっと簡単だった」
セレナは動きを止めた。
「――デュラン、という方ですね」
「そう名乗らせた」ジョスランは椅子に座った。「本名ではない」
「では、誰ですか」
男は答えなかった。
代わりに、机の引き出しを開けた。
取り出したのは、紙の束だった。
「君が探しているのは、これかね」
セレナは、その紙を見た。
筆跡に、見覚えがあった。
角の立った、細い字。
――母の匣の番号札と、同じ字だ。
「これは」
「私の姉の手紙だ」ジョスランは言った。「二十年分ある」
彼は一枚を抜き、机に置いた。
「読みなさい」
セレナは近づかなかった。
「読まないのかね」
「読みません」彼女は言った。「この部屋で読ませようとするものを、読むわけにいきません」
男は笑った。
「賢明だ」
彼は紙を束に戻した。
「では、一行だけ読んでやろう」
ジョスランは束から一枚を選び、読み上げた。
「――ジョスラン。あの人には決して渡さないでください。あなただけを信じます」
部屋が静かになった。
セレナは、義姉の腕を支えたまま動かなかった。
「私の姉は、二十年、私に頼み続けた」男は言った。「南から来る荷を、夫に渡さないでほしいと」
「――夫」
「先代の当主だ」ジョスランは言った。「私の兄だよ」
彼は束を引き出しに戻した。
「甥に伝えたまえ」男は言った。「君の母を殺したのは、君の父だとね」




