第四十四話 席
別棟の玄関に立ったのは、日が落ちて一刻後だった。
セレナは襟元に、小さな袋を縫いつけていた。自分で作った匂い袋の中身を、半分に減らしたものだ。柑橘の並品と、乾いた根。三月前から売り続けている、ありふれた配合。
――基準。
彼女は玄関の前で、一度それを嗅いだ。
すっぱい。少し石。リタが言った通りの匂いだった。
戸が開いた。
「お待ちしておりました」
使用人が頭を下げた。中年の女で、表情がない。
書斎は、三月前と同じだった。
絨毯。海図。革張りの椅子。
そして、香。
セレナは戸口で止まった。浅く吸う。
乳香、白檀、丁子。三月前と同じ組み合わせだ。
彼女は襟元を、鼻に近づけた。
――すっぱい。少し石。
変わっていない。
彼女は一歩、部屋に入った。
ジョスランは、机の向こうに座っていた。
そして、その手前の椅子に、ミレイユが座っていた。
深紅ではなく、旅装の地味な色だ。だが背筋の伸ばし方は変わっていなかった。人前での立ち方だけは完璧な人だ、とセレナは思った。
義姉は振り返り、そして――固まった。
「セレナ」
「お久しぶりです」
ミレイユの顔から、色が引いた。
「なぜ、あなたがここに」
「三月前から、この街におります」
「――三月前」
「王都を出た日から、まっすぐここへ来ました」セレナは言った。「東門に貼り紙がありました。辺境交易都市アルシェ、香料の目利きを求む、資格不問と」
ジョスランが笑った。
「私が出させたものだ」
セレナは、その男を見た。
「――あなたが」
「三年前に目利きで痛い目に遭ってからね」ジョスランは足を組んだ。「甥が新しい目利きを探すのは時間の問題だった。ならば、こちらで選べる形にしておいたほうがいい」
彼は指を組んだ。
「もっとも、当てが外れたがね」
セレナは椅子に座った。座る前に、もう一度襟元を嗅いだ。
変わっていない。
「ミレイユ」ジョスランが言った。「君の工房の話を、彼女にもしてやりなさい」
義姉が硬い顔で振り返った。
「なぜ、この人に」
「彼女は甥の目利きだ」男は言った。「甥が金を出すかどうかは、彼女の意見で決まる」
嘘だ、とセレナは思った。
ラウルは既に断っている。この男はそれを知らない。あるいは知っていて、別の目的で言っている。
「――三万ドラム、でしたね」セレナは言った。
ミレイユの肩が動いた。
「聞いていたの」
「伺いました」
「工房を担保にする話も」
「はい」
義姉は膝の上で扇を握った。三月前、王宮の広間で持っていたのと同じ扇だった。
「あなたに関係のない話です」
「関係あります」セレナは言った。「私は、あの工房の蒸留室で三年寝起きしました」
部屋が静かになった。
「工房が人手に渡れば、あそこにいる七人の弟子は職を失います」彼女は続けた。「エリク、ノラ、若いほうのトマ。三人は住み込みです。行くところがありません」
ミレイユの目が、揺れた。
「――あなた、なぜ名前を」
「三年一緒にいましたので」
セレナは膝の上で手を組んだ。
「お姉さま。三万は返せません」
「返せます」
「返せません」彼女は言った。「『黎明』は再現できていない。原料の仕入れ先がわからないからです」
ミレイユの顔が、白くなった。
「――なぜ、それを」
「西の街道に、柑橘の乾皮が三十袋流れました」セレナは言った。「三月前です。捨て値でした」
義姉は何も言わなかった。
「あれを買ったのは、私です」
扇が、膝の上で落ちた。
ジョスランが、面白そうに二人を見ていた。
セレナは、その視線を意識した。
――見せ物にされている。
この男は、義姉を潰すために自分を呼んだのではない。二人が潰し合うのを見に来たのだ。
「お姉さま」彼女は言った。「一つだけ、伺わせてください」
「――何を」
「なぜ、私を工房から出したのですか」
ミレイユの肩が上下した。
「名前を取るだけなら、私を置いておけばよかったはずです」セレナは言った。「作らせて、名前だけ取り続ければ、工房は回りました」
義姉は、答えなかった。
「登録まで消したのはなぜですか」
「――お父さまが」
「ガレル師が?」
「あの人が決めたことです」ミレイユは言った。「わたくしは何も」
「発表の場で膝を折ったのは、あなたです」
義姉が顔を上げた。
その目に、はじめて感情らしいものが浮かんだ。怒りではなかった。もっと薄い、追い詰められた人間の目だった。
「わたくしに、他に何ができたと言うの」
セレナは動きを止めた。
「――お姉さま」
「三年、あなたが工房にいる間」ミレイユは言った。「お父さまは、あなたのことしか見ていなかった」
部屋の香が、少し重くなった気がした。
セレナは襟元を嗅いだ。変わっていない。
「わたくしは調香ができません」義姉は言った。「一度もできませんでした。手が向いていないのです。何度やっても、あなたの半分もできなかった」
「――知りませんでした」
「言えるわけがないでしょう」
ミレイユは扇を拾った。
「工房の娘に生まれて、調香ができない」彼女は言った。「わたくしにできたのは、外に出て、人前で笑って、注文を取ってくることだけです」
「それは、必要な仕事です」
「必要でも、名前は残りません」
義姉は扇を握りしめた。
「三年前、お父さまの手が震えはじめました」彼女は言った。「わたくしは怖かった。あの人が作れなくなったら、工房には作れる人が一人しか残らない」
「私ですね」
「そうです」
ミレイユは顔を上げた。
「お父さまは、あなたを跡取りにするつもりでした」
セレナは、椅子の背を掴んだ。
「――そんな話は」
「あなたには言いません」義姉は言った。「わたくしには言いました。半年前です。セレナに継がせる、お前は嫁に行けと」
書斎が静かになった。
ジョスランは、何も言わずに二人を見ていた。
「それで、あの日ですか」セレナは言った。
「――そうです」
「記録帳を作ったのは」
「わたくしです」ミレイユは言った。「三日、徹夜して写しました」
セレナは、目を閉じた。
線が均一すぎた記録帳。疲れた夜の字と朝の字が同じ濃さで並んでいたあの帳面を、この人は三日徹夜で書いた。
――三日で書いたから、均一だったのだ。
「お父さまは、止めませんでした」義姉は言った。「わたくしが差し出したとき、あの人は何も言わずに受け取りました」
「――なぜ」
「わかりません」ミレイユは言った。「今でもわかりません」
彼女は膝の上で手を握った。
「ただ、あの日から、お父さまはわたくしを見るようになりました」
セレナは、しばらく声が出なかった。
三月間、憎んできた相手が、目の前で震えている。
その理由が、自分が一度も想像しなかったものだった。
「――感動的だな」
ジョスランが言った。
二人が同時に振り返った。
「実に感動的だ」男は椅子から立ち上がった。「だが、話がずれている」
彼は棚に歩いていった。
「私が席を設けたのは、昔話をさせるためではない」
棚から、黒い箱を取り出した。
漆塗り。螺鈿の蔓草。
セレナの背筋が凍った。
――二つ目の匣。
「セレナ君」ジョスランは机に匣を置いた。「君に見てもらいたいものがある」
「――何ですか」
「開けてみたまえ」
彼女は動かなかった。
「開けなさい」
「お断りします」
ジョスランが笑った。
「では、私が開けよう」
彼は蓋に手をかけた。
セレナは襟元を嗅いだ。
――変わった。
すっぱさが、消えていた。




