第四十三話 報告の中身
ボリスは、詰所の奥へセレナを通した。
帳場の裏の小部屋だった。荷の書付が壁一面に貼ってある。窓はない。
「話を聞こう」男は戸を閉めた。
「あなたは月に二度、別棟に呼ばれます」セレナは言った。「次はいつですか」
「四日後だ」
「そこで、何を話されますか」
「訊かれたことを答える」ボリスは腕を組んだ。「今月の荷。商会の仕入れ。それから――あんたのことだ」
「私の何を」
「どこへ行った、誰と会った、何を嗅いだ」男は言った。「三月前からずっと訊かれてる」
セレナは頷いた。
「南へ行ったことも」
「言った」
「ヴィオラ様が戻られたことも」
「――言ってない」
彼女は目を上げた。
「まだ呼ばれてないからな」ボリスは言った。「四日後に言うことになる」
「言ってください」
「いいのか」
「隠せば、あなたが疑われます」セレナは言った。「妹が帰ってきたことは、屋敷の人間が全員知っています。隠しても意味がありません」
「――で、何を言えばいい」
彼女は椅子を引いて座った。
「事実を、順番を変えずに言ってください」セレナは言った。「嘘は混ぜません。混ぜれば、必ずどこかで綻びます」
「じゃあ、何を変える」
「重みです」
彼女は指を三本立てた。
「一つ。ヴィオラ様が戻られた。これは事実です」
「言う」
「二つ。私が南へ行き、山の畑と林を見た。これも事実です」
「言うのか?」
「言ってください」セレナは言った。「向こうは既に知っています。港に監視がいました」
「――三つ目は」
「私が、王都の工房の件で焦っている」
ボリスが眉を寄せた。
「焦ってるのか」
「焦っていません」セレナは言った。「ですが、そう見えるように振る舞います」
彼女は指を折った。
「客間に義姉がいます。私は三月前に、あの人に名前を奪われました」彼女は言った。「その相手が同じ建物にいて、私は一度も顔を合わせていない」
「――避けてるように見えるな」
「見えます」セレナは言った。「そして、避けている人間は、いずれ耐えられなくなって動きます」
ボリスは、しばらく彼女を見ていた。
「あんた、自分を餌にする気か」
「餌ではありません」彼女は言った。「本当に、耐えられなくなりかけていますので」
男は口を開き、それから閉じた。
「――それは、嘘じゃないんだな」
「嘘ではありません」
セレナは膝の上で手を組んだ。
「三月前、私は捨て台詞を吐きませんでした」彼女は言った。「吐けば最後の言葉になるからです。ですから、まだ何も言っていません」
「言いたいのか」
「言いたいです」
彼女は顔を上げた。
「ですから、それを報告してください」セレナは言った。「あの目利きは義姉に会いたがっている、と」
ボリスは腕を組んだ。
「向こうは、どう動く」
「会わせようとします」
「なぜ」
「私が動揺すれば、判定が鈍ります」セレナは言った。「三月間、私は一度も判定を外していません。向こうにとって、私の鼻は邪魔です。ですが、殺すのは面倒です」
「――面倒?」
「私は今、街に知られています」彼女は言った。「祭の香を作りました。匂い袋を二百売っています。荷役の詰所に顔が知られている」
彼女は壁の書付を見た。
「三月前なら、私が河に浮いても誰も気にしませんでした。今は違います」
「だから、鈍らせる」
「そうです」
ボリスは長く息を吐いた。
「――一つ、訊いていいか」
「はい」
「なんで俺に話す」
セレナは、少し考えた。
「あなたが、三年前のことを調べたからです」彼女は言った。「王都の組合に問い合わせて、デュランが偽物だと確かめた。それは、後ろめたい人間の行動です」
「――後ろめたい?」
「本当に仲間なら、調べません」セレナは言った。「調べたということは、自分が騙されたのかどうかを知りたかったということです」
男は、椅子の背にもたれた。
「三十年、この街で荷を扱ってきた」彼は言った。「別棟には逆らえん。だが、坊ちゃんが四千ドラム取られたときは、寝られなかったよ」
「そうでしょうね」
「あんたが来て、判定が始まって」ボリスは言った。「三月で、うちの仕入れが二割安くなった。俺は嬉しかった。同時に、報告してた」
「はい」
「――嫌な三月だった」
「四日後で、終わりにしましょう」
四日後の夕方、ボリスは別棟に呼ばれた。
セレナは商会の土間から、それを見送った。
男が中庭を渡っていく。背中が丸い。三十年荷を扱ってきた男の背中だった。
半刻して、戻ってきた。
彼は土間には来ず、そのまま河港へ降りていった。
その夜、詰所でセレナが会うと、ボリスは書付の裏に何か書いていた。
「言った通りに話した」男は言った。「妹さんのことも、南のことも、あんたが義姉に会いたがってることも」
「反応は」
「妹さんの話をしたとき、何も言わなかった」ボリスは言った。「知ってたんだろう」
「南のことは」
「山のどこまで行ったか、と訊かれた」
「なんと答えられましたか」
「知らんと答えた。本当に知らんからな」
セレナは頷いた。
「三つ目は」
男は書付を裏返した。
「――そこで、初めて反応があった」
「どんな」
「笑った」ボリスは言った。「それから、こう言った」
彼は書き取ったものを読んだ。
「――では、席を設けよう」
セレナは、椅子の背を掴んだ。
「日にちは」
「明後日の夜だ。別棟で」
「場所は書斎ですか」
「そう言ってた」
彼女は目を閉じた。
書斎。六年前、ヴィオラが記憶を失った部屋。
濃い香が焚かれ、他の匂いが全部沈む部屋。
「ボリスさん。もう一つ、お願いがあります」
「なんだ」
「別棟の使用人に、知り合いはおられますか」
「――何人かいる」
「書斎の香が、いつ焚かれるか知りたいのです」セレナは言った。「常に焚いているのか、人が来る前に焚くのか」
男は少し考えた。
「訊ける」
「お願いします」
答えは、翌日に来た。
「常時じゃない」ボリスは言った。「朝に一度、夕方に一度。客が来るときは、その前に足す」
「誰が焚きますか」
「使用人だ。ジョスラン様が自分でやることはない」
「使用人は、その香を作れますか」
「作れんだろ」男は言った。「壺に入ってるやつを、匙で炉に落とすだけだと言ってた」
セレナは筆を止めた。
「――壺」
「そう」
「その壺は、どこから来ますか」
「知らん」
彼女は書き取りを見た。
匙で落とすだけの、出来合いの香。
誰かが調合して、壺に入れて、別棟に運んでいる。
「ボリスさん。その壺を、一度でも見た人はいますか」
「訊いてみる」
その夜、セレナは事務室でラウルとヴィオラに話した。
「明後日の夜、別棟に行きます」
ラウルが立ち上がった。
「駄目だ」
「ラウル様」
「あの部屋で妹が記憶を失った」彼は言った。「同じ部屋に、あんたを行かせるか」
「行かなければ、次はありません」
「次はある」
「ありません」セレナは言った。「組合が止まっています。三月で街が回らなくなります。こちらには時間がない」
ラウルは机を叩いた。
音が響いた。
「――なら、俺も行く」
「行けません」
「なぜだ」
「席は、私と義姉のために設けられました」彼女は言った。「あなたが来れば、向こうは中止します」
ヴィオラが口を開いた。
「セレナさん」
「はい」
「あの部屋の香を、無効にする方法はありませんか」
セレナは彼女を見た。
「――どういう意味ですか」
「香が濃いから、他の匂いが沈むのですよね」娘は言った。「では、鼻を先に埋めておけばよいのでは」
セレナは、しばらく動かなかった。
「――ヴィオラ様」
「はい」
「それは」
「行く前に、強い匂いを嗅いでおくのです」ヴィオラは言った。「そうすれば、部屋に入っても香に驚きません。驚かなければ、深く吸いません」
セレナは机の縁を握った。
「――逆です」彼女は言った。「鼻を埋めると、判別できなくなります」
「では、どうすれば」
セレナは目を閉じた。
三月前、書斎に入ったとき、自分は何をしたか。
戸口で一度止まった。浅く吸った。深く吸ってはいけないと判断した。
「――基準を持っていきます」
彼女は目を開けた。
「基準?」
「私が作った香を、袋にして持っていきます」セレナは言った。「部屋に入って、まず自分の袋を嗅ぐ。それが基準になります」
「それで、どうなるのですか」
「基準があれば、ずれがわかります」彼女は言った。「部屋の香に何か混ざっていれば、私の袋の匂いが変わって感じられるはずです」




