第四十二話 林を守った人
翌朝、ヴィオラが階段を降りてきた。
顔色は悪くなかった。マルタが強引に食べさせた朝食を、全部平らげたのだという。
「兄さま。南へ、文を出させてください」
「誰にだ」
「屋敷の古い者に」娘は言った。「わたくしが六年、山の話をしていた相手です」
「名は」
「サシャ。庭を見ている女です」ヴィオラは言った。「六十を過ぎています。母が娘の頃から屋敷にいます」
セレナは筆を出した。
「その方に、林の手入れを誰がしているか、伺えますか」
「伺えます」娘は言った。「ですが、便船は三日に一度です。往復で八日かかります」
「八日なら間に合います」
「――間に合う?」
セレナは、ヴィオラを見た。
「向こうも動いていません」彼女は言った。「王都の役人は宿にいるだけ。組合の倉は封じられたまま。ミレイユは客間で返事を待っている」
「なぜ動かないのですか」
「動く理由がないからです」セレナは言った。「向こうから見れば、こちらはまだ何も打っていません」
ヴィオラは、少し考えた。
「――こちらが動けば、動きますね」
「はい」
「では、八日は動かないほうがよいのですか」
セレナは首を振った。
「動かなければ、こちらが干上がります」彼女は言った。「組合が止まって、五十軒の店が仕入れできません。三月もすれば街が回らなくなります。困るのはこちらです」
「では」
「八日のうちに、こちらの形を作ります」
文は、その日の便船で出た。
ヴィオラが書き、ラウルが商会の名で船賃を払った。宛先は南の屋敷ではなく、港の宿にした。サシャが受け取りに来る形にする。
「屋敷に届けば、必ず読まれます」娘は言った。「サシャは月に一度、港へ買い物に降ります。その日に受け取れます」
「日にちは」
「明後日です」
その八日で、セレナは三つのことをした。
一つ目は、匂い袋の増産だった。
「今こそ、ですか」ヴィオラが訊いた。
「今です」セレナは言った。「組合が止まって、薬種商が仕入れられません。街の人間は、風邪をひいても薬が買えない」
「わたくしたちが売るのですか」
「薬は売れません。私は登録がありませんし、売れば組合の管轄です」彼女は言った。「ですが、匂い袋は売れます」
娘は、少し笑った。
「――抜け道ですね」
「抜け道です」
二人と、リタの三人で作った。ヴィオラの手つきは速かった。六年ぶりだというのに、原料の選り分けに迷いがない。
「上手ですね」セレナが言った。
「体が覚えていました」娘は言った。「香には触っていませんでしたが、山では草を摘んでいましたので」
リタが顔を上げた。
「ヴィオラ、鼻いい?」
「よくありません」
「うそ」子どもは言った。「さっき、割らないで中がわかってた」
ヴィオラが手を止めた。
「――音です」
「音?」
「振ると、音がします」娘は乳香の粒を振ってみせた。「本物は詰まった音がします。偽物は軽い」
セレナは、その手元を見た。
知らなかった。三年やって、一度も気づかなかった方法だった。
「ヴィオラ様。それは、どなたに」
「母の帳面に書いてありました」娘は言った。「南の屋敷に、母の若い頃の帳面が残っています」
セレナは筆を落としそうになった。
「――帳面が」
「あります」
「なぜ、それを先に」
「訊かれませんでしたので」
二つ目は、ヘルマンとの相談だった。
「組合の五十人を、集められますか」セレナは訊いた。
「集められる」ヘルマンは言った。「だが、何のために」
「封の話をするためです」
男は眼鏡を押し上げた。
「――封は王都の印だ。街の人間は逆らえん」
「逆らわなくて結構です」セレナは言った。「ただ、事実を確認していただきたいのです」
「事実?」
「王都の調香師組合には、他所の組合の倉を封じる権限がありません」彼女は言った。「これは規約に書いてあります。組合の管轄は、その組合の登録者のみ」
「――君は、王都の規約を暗記しているのか」
「三年、毎日読まされました」セレナは言った。「見習いは規約を諳んじられないと、仕入れに出してもらえません」
ヘルマンは、しばらく黙った。
「では、あの封は」
「無効です」彼女は言った。「最初から」
「――だが、剥がせば」
「剥がしません」セレナは言った。「剥がせば、こちらが動いたことになります」
「では、どうする」
「五十人に、知らせるだけです」
彼女は言った。
「あの封は無効だと、五十人が知っている状態を作ります」
三つ目は、ボリスだった。
セレナは河港の詰所に、三日続けて通った。
匂い袋を届けるためだ。詰所の壁の釘に、新しいものを掛けていく。
「精が出るね」ボリスが言った。
「組合が止まって、荷が減っているようですね」
「減ってる」男は言った。「うちの荷役も、半分は暇だ」
「困りますね」
「困るよ」
セレナは壁に袋を掛けながら、横目で見た。
この男の顔には、焦りがない。荷が半分になって、詰所を仕切る人間が焦らないのは、おかしかった。
「ボリスさん」
「なんだ」
「三年前のこと、余計なことは聞かんほうがいいとおっしゃいましたね」
男の手が止まった。
「――言ったな」
「あれは、忠告でしたか」
「そうだよ」
「では、ありがとうございます」セレナは言った。「私は忠告を三度受けています」
ボリスが眉を寄せた。
「三度?」
「ヘルマン様に一度。あなたに一度」彼女は言った。「もう一度は、薬種商のご主人からです」
「――何の話だ」
「忠告してくださる方は、私に生きていてほしいのだと思います」セレナは言った。「殺したい人は、忠告しません」
男の顔が、はじめて動いた。
セレナは袋を掛け終えて、手を拭いた。
「ボリスさん。三年前、あなたが連れてきた目利きは、王都にいない人でした」
「――知ってる」
彼女は顔を上げた。
「ご存じだったのですか」
「あとで調べた」ボリスは言った。「王都の組合に問い合わせた。そんな登録者はいないと」
「坊ちゃんには」
「言えなかった」
男は壁にもたれた。
「言えば、俺が疑われる」彼は言った。「俺が連れてきた男だ。偽物だと知って連れてきたと思われる」
「知らなかったのですか」
「知らなかった」ボリスは言った。「バルタが――王都の仲買がな、いい話だと持ってきた。俺はそれを右から左に流しただけだ」
「そのバルタという方は」
「死んだよ」
セレナは動きを止めた。
「――いつ」
「三年前の冬だ。目利きの件のあとだ」男は言った。「王都で、川に落ちたと聞いた」
彼女は、しばらく何も言えなかった。
三年前の夏、灰華が買い占められる。秋、偽の目利きが来る。冬、仲介した仲買が死ぬ。
「ボリスさん」セレナは言った。「あなたの上着から、香の匂いがします」
男の顔が、こわばった。
「乳香と白檀と丁子」彼女は言った。「別棟の書斎と、同じ組み合わせです」
ボリスは、しばらく動かなかった。
それから、大きく息を吐いた。
「――呼ばれるんだよ」
「別棟に」
「月に二度だ」男は言った。「荷の話をする。三年前からずっとだ」
「何を話されますか」
「向こうが訊いて、俺が答える」ボリスは言った。「今月の荷は何が入ったか。誰が買ったか。商会は何を仕入れたか」
「あなたは、それに答えている」
「答えてる」
彼は詰所の中を見た。荷役たちは奥で昼飯を食っている。
「断れんよ」ボリスは言った。「俺は仲買だ。この街で荷を扱って三十年だ。別棟に睨まれたら、明日から荷が来ない」
セレナは頷いた。
「あなたが、私の判定を報告しておられますね」
「――してる」
「三月分、全部」
「全部だ」
彼女は、意外にも腹が立たなかった。
「ボリスさん。それは続けてください」
男が顔を上げた。
「――なに」
「続けてください」セレナは言った。「やめれば、あなたが疑われます」
「あんた、それでいいのか」
「よくありません」彼女は言った。「ですが、あなたが報告する内容を、こちらが決められるなら、話は別です」




