第四十話 一度だけ
リタは、案の定、渋った。
「なんであたしだけ」
「危ないから」
「セレナも危ないでしょ」
「私は作業をする人だから」
「あたしも作業する」
セレナは屈んだ。
「リタ。前に約束したわね。何を嗅ぐときも、必ず私に言ってからにするって」
「した」
「今日は、私が守れない」彼女は言った。「私は、ヴィオラ様だけを見ていないといけない。あなたを見ていられない」
子どもは、しばらく黙った。
「――こわいの?」
「怖い」
リタは、また少し黙った。
それから、頷いた。
「わかった」
「ありがとう」
「かわりに、おわったら教えて」子どもは言った。「ぜんぶ」
「教える」
朝、四人が土間に集まった。
セレナ、ヴィオラ、ラウル、それからヘルマン。
「証人が要ります」セレナはそう言って、丸眼鏡の男を呼んだ。「何が起きても、外から見ていた人が必要です」
ヘルマンは自分の家から出てきた。三日、誰も襲ってこなかったのだという。
「向こうも今は動けん」男は言った。「組合に封をしたのは向こうだ。封を貼った以上、当面あの倉には手を出せない」
「王都の役人は」
「まだいる」ヘルマンは言った。「宿にいる。動いていない」
セレナは頷いた。
こちらが動くのを待っている。それは、こちらの状況と同じだった。
準備は、二段に分けた。
一段目、二十三番。
小皿に一滴。炉の端に置き、炭は白く灰をかぶったものだけを使う。
「先に、こちらを焙ります」セレナは言った。「ヴィオラ様は嗅がないでください。私が匂いの立ち方を確かめます」
油が温まり、縁から泡が立った。
匂いが来る。
冷たいものが先に来て、後から甘さが追いかけてくる。三月前に嗅いだときと同じだった。
セレナは火を落とし、皿に蓋をした。
「準備できました」彼女は言った。「この蓋を開ければ、一呼吸で足ります」
ヴィオラが頷いた。
二段目、十一番。
別の小皿に、耳かき一杯にも満たない量。
セレナは炉の反対側に置き、扇で風を作った。煙が戸口へ抜けるようにする。
「ヴィオラ様。三歩下がってください」
娘が下がった。
「合図をしたら、一呼吸だけ吸ってください」セレナは言った。「深く吸わないこと。鼻から入れて、すぐ止める」
「はい」
「もし何か感じたら、すぐに座ってください。立っていると、倒れたときに危ない」
「はい」
「ラウル様は、ヴィオラ様の後ろに」
ラウルが妹の背後に立った。
「ヘルマン様は戸口に。私が三つ数えて動かなかったら、二人とも外に出してください」
「――君は」
「私は最後です」
セレナは炉の前にしゃがんだ。
白い粉に、熱が入る。
色が変わりはじめた。白から、淡い灰色へ。
「――来ます」
匂いが立った。
甘い。粘る。喉に絡む甘さ。
「今です」
ヴィオラが息を吸った。
一度。
セレナは即座に炉に水をかけた。蒸気が上がる。
「外へ」
ヘルマンが戸を全開にした。ラウルが妹の肩を支えた。
ヴィオラは、自分で歩いた。
路地に出て、河の風を吸う。三度。
「――大丈夫です」娘は言った。「頭が、少し重いくらいで」
セレナは彼女の顔を見た。
瞳孔は正常。呼吸も乱れていない。
「何か、変わりましたか」
「わかりません」
三人は、路地でしばらく待った。
四半刻。
半刻。
ヴィオラは壁に寄りかかって、目を閉じていた。
「――ヴィオラ様」
「起きています」
「何か」
「ありません」
セレナは、拳を握った。
量が足りなかったのか。それとも、六年経ったものは動かないのか。
「もう一度――」
「駄目です」ヴィオラが目を開けた。「一度だけと、約束しました」
セレナは言葉を止めた。
自分が出した条件だった。
娘は、少し笑った。
「セレナさん。あなたが約束を破ってはいけません」
彼女は壁から離れた。
「戻りませんでした。それだけです」
「――ヴィオラ様」
「いいのです」娘は言った。「わたくしは、思い出せないまま生きます。六年やってきたことです」
その日の夕方、四人は土間に座っていた。
誰も、あまり喋らなかった。
ヘルマンが茶を淹れた。丸眼鏡の男が、慣れない手つきで湯を注いだ。
「――すまん。私が余計なことを言ったせいだ」
「何のことです」ラウルが言った。
「六年前だ」ヘルマンは言った。「私が、焙るなと言った。あれがなければ、お嬢さんは灰華をそのまま焙って、何も起きずに済んだ」
「焙っていたら、街の全員が鼻を失っていました」セレナが言った。
「そうだ。だが」
「だが、はありません」彼女は言った。「あなたの判断は正しかった」
男は茶碗を置いた。
ヴィオラが顔を上げた。
「ヘルマン様」
「はい」
「六年前、わたくしは何度あなたのところへ行きましたか」
ヘルマンが眉を寄せた。
「――二度です」
「二度」
「一度目は十の月の終わり。材料の相談です」男は言った。「二度目は、十一の月に入ってから」
セレナが顔を上げた。
「二度目のことを、伺っていません」
「たいした話ではない」ヘルマンは言った。「お嬢さんが来て、焙るなという話を確認して帰った。それだけだ」
「確認、というのは」
「本当に焙ってはいけないのか、と訊かれた」男は言った。「私は、絶対にいけないと答えた」
ヴィオラの手が、茶碗の上で止まった。
「――そのとき、わたくしは何と」
「何も言わずに帰られた」
娘は、しばらく茶碗を見ていた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「――窓が」
セレナは背筋を伸ばした。
「なんですか」
「組合の理事長室に、窓がありました」ヴィオラは言った。「南向きの。午後の光が入って、埃が見えて」
ヘルマンが立ち上がった。
「――ある」
「そこに、人が立っていました」娘は言った。「わたくしが帰るとき、外に」
「誰です」
ヴィオラは目を閉じた。
こめかみに指を当てて、しばらく動かなかった。
「――叔父さまです」
土間の空気が止まった。
「わたくしが組合を出たとき、叔父さまが立っておられました」娘は言った。「そして、こうおっしゃいました」
彼女は目を開けた。
「――何を訊きに来た、と」
セレナは、机の縁を握った。
「お答えになりましたか」
「答えました」ヴィオラは言った。「灰華のことを、と」
彼女の顔から、血の気が引いていた。
「叔父さまは、笑って、こうおっしゃいました」
娘は、両手で口を覆った。
「――それは、お前の母が持ち込んだものだ、と」




