第三十九話 条件
三日かけて、セレナは条件を組んだ。
量は、六年前の百分の一。ヴィオラは九本を九回嗅いだ。今度は一回、しかも微量。
温度は、焙りの手前で止める。粉が灰色に変わる直前、匂いが立ちはじめた瞬間に火を落とす。
距離は、三歩。顔を近づけさせない。立ち上ってくる層の一番上だけを、一呼吸。
時間は、一呼吸だけ。
「手当てが書けません」彼女は言った。「解毒の方法がありません」
染物屋の土間に、四人が集まっていた。ラウル、ヴィオラ、セレナ、それから桟橋の女。
女は炉の脇に座って、煙管を咥えていた。呼んだのはセレナだった。灰華を二十年扱ってきた人間なら、十一番も知っているかもしれないと思った。
「その粉は知らん」女は言った。「あたしが扱ってたのは灰華だけだ」
「似たものも、ですか」
「南の粉は種類が多い」彼女は煙を吐いた。「あたしが焙ってたのは、鼻を潰すやつだけだ。他は触らなかった」
「なぜです」
「触ったら死ぬからさ」
土間が静かになった。
女は煙管を灰に叩いた。
「二十年前、あたしは若くてね。何でも試した」彼女は言った。「登録を剥がされたのは、南の粉を三つ試したからだ。一つ目で鼻が三日効かなくなった。二つ目で三日眠った」
セレナは身を乗り出した。
「――三日眠った」
「そう」
「それは、白い細かい粉ではありませんでしたか」
「白かった」女は言った。「雪みたいなやつだ」
ヴィオラが顔を上げた。
「――記憶は」
「なくなったよ」女はあっさり言った。「一月分ほどな」
「戻りましたか」
「戻らん」
小屋の空気が、重くなった。
「二十年経つが、あの一月は空いたままだ」女は言った。「何をしていたか、まるでわからない。誰と会ったかも」
ヴィオラは膝の上で手を握った。
「――では、わたくしも」
「あんたは六年だろ」女は言った。「六年で戻ってないなら、もう戻らんよ」
セレナは口を開きかけて、止めた。
言うべきことがある。だが、この人に言わせたほうがいい。
「なら、なぜ来てくださったのですか」セレナは訊いた。
女は煙管を持ち直した。
「三つ目の粉のことを言いに来た」
全員が彼女を見た。
「一つ目で鼻を潰して、二つ目で記憶を失って、それでもあたしは三つ目を試した」女は言った。「馬鹿だったんだ」
「何が起きましたか」
「何も起きなかった」
セレナは眉を寄せた。
「――何も」
「そう。何も」女は言った。「焙って、嗅いで、何も起きない。がっかりして、その日は寝た」
彼女は炉の火を見た。
「翌朝、記憶が戻ってた」
土間の音が消えた。
ヴィオラが立ち上がった。
「――戻った?」
「二つ目で消えた一月分が、丸ごと戻ってた」女は言った。「はっきりとな。誰と会ったかも、何を話したかも」
「その粉は」セレナが言った。「どんな粉ですか」
「琥珀色の油だ」
セレナの手が止まった。
「――油」
「そう。瓶に三分の一ほど入ってた」女は言った。「焙ると、最初に冷たい匂いが来て、後から甘くなる」
彼女は立ち上がり、机の上の匣に歩いた。
蓋を開ける。
二十三番。
「これですか」
女は瓶を光にかざした。
長く見た。
「――同じだ」彼女は言った。「あたしが試したのと、同じ色をしてる」
セレナは、椅子の背を掴んだ。
二十三番は、調合済みの香。母が南から持ってきた見本。彼女が三年かけて辿り着いた組み方と、同じ骨格をしたもの。
――解毒だ。
「なぜ、それを今まで」ラウルが言った。
「訊かれなかったからさ」女は瓶を戻した。「あたしは一度だけ答える。あんたらが訊いたのは灰華のことだ」
セレナは、机に手をついた。
「では、今日は二度目です」
「そうだね」女は煙管を仕舞った。「三月前に一度答えて、今日また来た。あたしのやり方じゃない」
「なぜ、破られたのですか」
女は戸口に向かった。
そこで一度、止まった。
「あの丸眼鏡がね」彼女は言った。「三日、うちで寝てた」
「はい」
「三日目の朝に、こう言った。二十年、あんたに謝ってなかった、と」
彼女は戸を開けた。
河の風が入ってきた。
「あたしの登録を剥がしたのは、組合だ」女は言った。「あの男は当時、まだ下っ端でね。何もできなかった。それを二十年、覚えてたらしい」
彼女は外に出た。
「――だから、今日は答えた」
女が去ったあと、四人は――三人は、しばらく黙っていた。
やがて、ヴィオラが口を開いた。
「セレナさん」
「はい」
「順番が変わりますね」
セレナは頷いた。
「十一番の前に、二十三番を用意します」彼女は言った。「記憶を失ったあとで戻すのではありません。失う前に、戻す手段を確保しておくのです」
「量は」
「あの方は、瓶三分の一のうち、どれだけ使ったのでしょう」
「訊き損ねました」
「明日、訊きに行きます」
ラウルが首を振った。
「あの女は、二度と答えんぞ」
「いいえ」セレナは言った。「あの方は、訊かれなかったから答えなかったと言いました」
彼女は瓶を手に取った。
「訊けば、答えます」
翌日、桟橋の下の小屋へ行った。
女は炉の前にいた。ヘルマンはいなかった。
「あの丸眼鏡は出てったよ」女は言った。「自分の家に戻るとさ」
「危険では」
「本人がそう決めた」
セレナは炉の脇に座った。
「二十三番の量を、伺いに来ました」
女は火箸を止めた。
それから、少し笑った。
「――訊きに来たか」
「はい」
「一滴だ」
セレナは筆を出した。
「小皿に一滴落として、焙った」女は言った。「それで足りた」
「距離は」
「顔をつけて嗅いだよ。若かったからね」
「時間は」
「三度吸った」
セレナは書き取った。
「翌朝に戻ったとおっしゃいました」
「そうだ。寝て起きたら戻ってた」
「間に、何かされましたか」
「寝ただけだ」
彼女は書き終えて、筆を置いた。
「ありがとうございます」
「礼はいい」女は言った。「一つ、訊いていいか」
「はい」
「あんた、あの娘に使うんだろ」
「はい」
「なんで、そこまでする」
セレナは、しばらく考えた。
「――あの方は、六年前に告発しようとしました」彼女は言った。「十七で、一人で、灰華を香に入れて祭で焚こうとした」
「それで潰されたか」
「潰されました」セレナは言った。「私は三月前に、王都で同じことをして潰されました」
女は炉を突いた。
「同じじゃないだろ。あんたは生きてる」
「あの方も生きています」
「六年、空っぽでな」
「空っぽではありません」セレナは言った。「六年、あの方は思い出さないことで兄を守っていました。それは、何もしていないのとは違います」
女は、しばらく黙った。
「――あんた、変な理屈をこねるね」
「はい」
「嫌いじゃない」
彼女は火箸を置いた。
「一つ、忠告しておく」
「はい」
「戻った記憶は、優しくないよ」
セレナは顔を上げた。
「あたしが戻したときね、一月分が全部戻った」女は言った。「その中に、思い出したくないことが二つあった」
「――どんな」
「言わん」彼女は言った。「だが、二十年経っても消えない」
女は炉の火を落とした。
「あの娘に言っておきな」彼女は言った。「戻すってのは、いいことばかりじゃない」




