第三十八話 客間の会話
ヴィオラが客間へ向かったのは、その日の夕方だった。
セレナは廊下の突き当たりにいた。客間の扉から十歩ほど離れた、階段の陰。ここなら人が来ても、階段を上がるふりができる。
扉が開いて、閉まった。
声は聞こえない。石造りの壁は厚い。
彼女は壁に背を預けた。
――知っていたら、まだ動いている。
知らなかったら、終わりかけている。
どちらであっても、自分は動かなければならない。だが動き方が変わる。
半刻ほどして、扉が開いた。
ヴィオラが出てきた。廊下を歩き、階段の陰に入って、セレナの隣に立った。
「上へ」
事務室で、ラウルが待っていた。
ヴィオラは椅子に座り、両手を膝に置いた。
「知りませんでした」
セレナは息を吐いた。
「乾皮の話は」
「南では柑橘をどう干すのか、と伺いました」娘は言った。「日に干すのでしょう、とおっしゃいました」
「それだけですか」
「それだけです」ヴィオラは言った。「わたくしが、日陰で干すこともあると申し上げたら、少し驚いた顔をされました」
セレナは、机の縁を握った。
日陰で干す。それは調香の基本だ。日に当てれば油が飛ぶ。三年見習いをすれば、誰でも知っている。
「――工房は、終わりかけています」
ラウルが顔を上げた。
「三月で、そこまでか」
「三月ではありません」セレナは言った。「あの人は、最初から知らないんです」
彼女は椅子に座った。
「ミレイユは、調香師ではありません」セレナは言った。「工房の主人の娘で、外向きの顔をする人です。所作が完璧で、人前での立ち方を知っている。ですが、作業場の人間ではありません」
「では、誰が作っている」
「作れる人間が、もういません」
部屋が静かになった。
「ガレル師は、四年前から手が震えます」セレナは言った。「蒸留の温度合わせができなくなりました。だから、私が全部やっていました」
「弟子は」
「七人いました」彼女は言った。「ですが、調合まで任されていたのは私だけです。他の者は原料の下処理と、瓶詰めと、帳簿です」
ラウルが息を吐いた。
「――あんたを追い出したら、作れる人間がゼロになる」
「はい」
「なぜ追い出した」
「わかりません」セレナは言った。「三月前は、私も同じことを考えました。名前を奪うだけなら、私を置いておけばいい。作らせて、名前だけ取ればいい」
「そうだな」
「ですが、追い出した」彼女は言った。「登録まで消しました。あれは、私に二度と調香をさせないための処分です」
ヴィオラが顔を上げた。
「――怖かったのではないでしょうか」
セレナは彼女を見た。
「あなたが工房にいる限り、あなたが作ったという事実を知っている人間が中にいます」娘は言った。「七人の弟子も、職人も、みんな見ていたはずです」
「見ていました」
「その中で、あなただけが声を上げた」ヴィオラは言った。「一度上げた人は、二度目も上げます。ですから、外に出した」
セレナは、しばらく黙っていた。
「――外に出せば、声は届きません」
「はい」
「登録を消せば、調香師として二度と発言できません」
「はい」
彼女は膝の上で手を組んだ。
三月間、あれは理不尽な処分だと思っていた。理不尽ではない。合理的な処分だった。
「ヴィオラ様。もう一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「あの人は、何を話しましたか」
娘は少し考えた。
「工房の話を、たくさん」彼女は言った。「王家御用達の香のこと。書籍化――いえ、量産の準備が整っていること。三万あれば、来春には市場に出せること」
「本当だと思われますか」
「思いません」ヴィオラは言った。「話し方が、数字だけでした」
セレナは目を上げた。
「――数字だけ」
「量産の話をされるのに、香の話が一度も出ませんでした」娘は言った。「どんな香か、何が入っているか、どう作るのか。一言も」
彼女は膝の上で指を組んだ。
「香を作る人は、香の話をします」
ラウルが低く笑った。
「――妹よ」
「はい」
「お前、商人に向いているぞ」
「兄さまに似たのでしょう」
その夜、セレナは染物屋へ降りた。
八日ぶりの工房は、埃が薄く積もっていた。リタが炉に火を入れ、床を拭く。
「セレナ」
「なに」
「ヘルマンのおじさん、どうしてた」
セレナは手を止めた。
「無事よ」
「ほんとに?」
「本当に。三日食べてなかったけど、生きてた」
リタは雑巾を絞った。
「あのおじさん、あたしを連れてくるとき、走ってた」
セレナは振り返った。
「走った?」
「うん。手を引っぱって、坂を走った」子どもは言った。「あたし、靴が脱げそうになった」
彼女は、その光景を思い浮かべた。
丸眼鏡の五十男が、子どもの手を引いて坂を駆け上がる。組合の倉に封が貼られた日に。
「――そう」
「あのおじさん、あんまり速くなかった」
「そうでしょうね」
「でも、走った」
リタは雑巾を桶に落とした。
「セレナ、あのおじさんの匂い、まえと違った」
セレナは屈んだ。
「どう違った」
子どもは眉を寄せた。
「炭は、まだする」彼女は言った。「でも、うすくなってた」
セレナは、しばらく子どもの顔を見ていた。
――焙るのをやめているのだ。
三日前から、あの男は灰華を焙っていない。組合が封じられたからではない。自分で決めたからだ。
「リタ」
「なに」
「あなた、すごい鼻をしてる」
「知ってる」
セレナは笑った。
棚の一番奥から、十一番の瓶を出した。
白い粉。細かい。焙ると甘い匂いを出し、指先が痺れる。
ヴィオラの記憶を奪ったもの。
「これ、なに」リタが覗き込んだ。
「近寄らないで」
子どもは即座に三歩下がった。教えたことを守る。
「危ないやつ?」
「危ない」セレナは言った。「私も、まだ扱い方がわからない」
彼女は瓶を光にかざした。
一度だけ。ヴィオラは約束した。
その一度で、六年前の空白が戻るかどうか。
――条件を決めなければ。
量。温度。時間。距離。それから、失敗したときの手当て。
セレナは机に紙を広げ、書きはじめた。
書きながら、手が止まった。
――失敗したときの手当てが、書けない。
記憶を奪う薬に、解毒の方法がない。彼女はそれを知らないし、知っている人間も、たぶんいない。
できるのは、量を減らすことだけだ。
彼女は筆を置いた。
窓の外で、河の音がしていた。




