第三十七話 手が足りない
小屋の炉に、女が薪を足した。
「食え」
鉄鍋が炉に掛かっている。中身は雑炊だった。ヘルマンは椀を受け取り、両手で持った。
「三日、これで生きている」
「不味いだろ」女が言った。
「不味い」
「不味いと言える口があるだけましだ」
セレナは炉の脇に座った。ラウルは戸口に立ったままだった。
「ヘルマン様。手が足りなくなった、というのは」
男は椀を置いた。
「二十年、この街の灰華は三つで回っていた」彼は言った。「南から荷が来る。組合が焙る。別棟が受け取る」
「はい」
「この形は、閉じている」ヘルマンは言った。「外に一人も要らない。だから二十年、誰にも見つからなかった」
「それが崩れたのですね」
「君のせいだ」
セレナは顔を上げた。
ヘルマンは、責めている顔ではなかった。
「君が来て、台所が止まった」男は言った。「坊ちゃんの鼻が戻りはじめた。私が写しを作った。祭の香が変わった」
彼は指を折った。
「四つだ。四つとも、別棟の外で起きている」
ラウルが戸口で腕を組んだ。
「――叔父は、自分の手駒で対応できなくなった」
「そうです」ヘルマンは言った。「だから、王都を呼んだ」
セレナは膝を掴んだ。
「ヘルマン様。三年前の目利きは、王都から来ました」彼女は言った。「デュランという男です。ですが、王都にそんな目利きはいません」
「――知っている」
「ご存じだったのですか」
「あとで調べた」男は言った。「王都の組合に問い合わせた。登録者にデュランはいない、と返事が来た」
「ラウル様には」
「言えなかった」ヘルマンは俯いた。「言えば、坊ちゃんは仲買を疑う。仲買を疑えば、別棟に行き着く。行き着けば――」
「私が浮くな」ラウルが言った。
「そうです」
小屋が静かになった。
女が火箸で炭を寄せた。
「三年前だと」彼女が言った。
セレナが振り返った。
「はい」
「三年前に、買いに来た男がいた」
空気が止まった。
女は炉を見たまま続けた。
「あたしは一度だけ答える。売った相手のことは話さない」彼女は言った。「だが、あんたらは灰華のことを知って、まだ生きてる。それは二十年で初めてだ」
「――教えていただけるのですか」
「名前は知らん」女は言った。「顔も見てない。頭巾をかぶってた」
「では」
「声だ」彼女は言った。「王都の訛りだった」
セレナは息を吸った。
「量は」
「多かった」女は言った。「あたしが持ってる分の、ほとんど全部だ。銀貨で十二枚置いていった」
ラウルが戸口から一歩踏み出した。
「三年前の、いつだ」
「夏だよ。暑かった」
彼は帳簿の記憶を辿る顔をした。
「――目利きが来たのは、その年の秋だ」
セレナは、頭の中で並べた。
三年前の夏、王都訛りの男が桟橋の下で灰華を買い占める。
同じ年の秋、王都から偽の目利きが来て、商会に四千ドラムの損害を出す。
同じ年から、南への文の紙が北のものに変わる。
「――ラウル様。三年前に、王都と別棟が繋がったのではありません」
彼が振り返った。
「では何だ」
「三年前に、王都の側から来たんです」
セレナは立ち上がった。
「灰華を買いに来た男が先です」彼女は言った。「その男は、この街に灰華があることを知っていた。知っていたから、買いに来た」
「なぜ知っている」
「わかりません」彼女は言った。「ですが、知った上で来て、買い占めて、その秋に偽の目利きを送り込んでいます」
ヘルマンが顔を上げた。
「――順番が逆だ」
「はい」セレナは言った。「別棟が王都を使ったのではなく、王都が別棟に近づいた」
河港へ戻る道で、ラウルは黙っていた。
坂を半分登ったところで、彼は足を止めた。
「セレナ」
「はい」
「あんたの師匠は、灰華を知っているか」
彼女は、すぐに答えられなかった。
「――わかりません」
「三年前、王都訛りの男が買いに来た。今年、王都の組合の印が組合の倉に貼られた」ラウルは言った。「印を持ち出せるのは理事だ。あんたの師匠は理事だ」
「はい」
「繋がるか」
「繋がります」セレナは言った。「ですが、繋がるからといって、同じ人間とは限りません」
彼女は坂の下を見た。
河港の霧が晴れかけている。
「王都の組合の理事は七人です」セレナは言った。「印を扱えるのは、そのうち理事長と、書記長と、当番の理事」
「当番」
「月ごとに回ります」彼女は言った。「今月の当番が誰かは、王都に行かないとわかりません」
「行くのか」
「いずれ」
セレナは坂を登りはじめた。
「ですが、今ではありません」
商会に戻ると、ヴィオラが土間にいた。
マルタと並んで、礼の品を仕分けている。祭の礼はまだ届き続けていた。
「兄さま」
「休んでいろと言っただろう」
「休んでおります」娘は言った。「座って、手を動かしているだけです」
マルタが横から言った。
「お嬢さまは、朝から三度も食べていただきましたよ」
「三度は多いのです」
「痩せすぎです」
ラウルが小さく笑った。
セレナは、その光景を少し離れて見ていた。
六年ぶりに妹が帰った家で、台所の女が食べさせようとしている。ごく普通の光景だった。
――普通が、六年なかった。
「セレナさん」ヴィオラが顔を上げた。「客間の方のこと、伺いました」
セレナは頷いた。
「マルタが教えてくださいました」娘は言った。「あなたの、義理のお姉さまだと」
「はい」
「会わないのですね」
「今は」
ヴィオラは、仕分けの手を止めた。
「わたくしが、会いましょうか」
セレナは目を上げた。
「――ヴィオラ様が?」
「わたくしは、この家の娘です」娘は言った。「六年ぶりに南から戻った、病弱な妹。客間のお客さまにご挨拶するのは、自然なことです」
「危険です」
「危険ではありません」ヴィオラは言った。「わたくしは何も知らないことになっています。叔父さまも、そう思っておられます」
セレナは、その顔を見た。
六年、監視の下で情報を組み立ててきた人間の顔だった。
「――何を確かめられますか」
「あの方が、何を知らないかを」娘は言った。「知っていることは隠せます。知らないことは、隠せません」
ラウルが振り返った。
「ヴィオラ」
「兄さま。わたくしにも、何かさせてください」
彼は妹を見て、それからセレナを見た。
セレナは、少し考えた。
「――一つ、お願いします」彼女は言った。「話の中に、柑橘の乾皮を出してください」
「乾皮」
「はい」セレナは言った。「南の話をしていて、ふと思い出したように。南では柑橘をどう干すのか、と」
「それだけですか」
「それだけです」彼女は言った。「あの人が乾皮の処理を知っているかどうかで、いま王都の工房がどこまで行っているかがわかります」
ヴィオラは頷いた。
「知っていたら」
「工房は、まだ動いています」
「知らなかったら」
セレナは、少し間を置いた。
「もう、終わりかけています」




