第三十六話 ヘルマンの家
ヘルマンの家は、組合の裏手にあった。
二階建ての古い石造りで、蔦が壁の半分を覆っている。窓は閉まっていた。
セレナは戸を叩いた。
返事はない。
三度叩いて、それから戸口の下を見た。
石畳の隙間に、細かい灰が溜まっていた。風で溜まったものではない。誰かが履物についた灰を、ここで落としている。
彼女は指で掬い、布に取った。
匂いを確かめる。
――炭。それだけだ。
「入るか」
背後でラウルが言った。
「鍵がかかっています」
「壊す」
「待ってください」
セレナは、もう一度戸を見た。
鍵穴の周りに、細かい傷がある。新しい傷だ。
「――誰かが、既に開けています」
「押し入ったのか」
「開けようとして、手間取ったようです」彼女は言った。「傷が浅くて多い。素人です」
ラウルが取っ手に手をかけた。
回った。
「――開いている」
中は、荒らされていた。
棚が倒され、紙が床に散っている。組合の名簿、古い帳面、私物の書簡。踏まれた跡がある。
「三日前ですね」セレナは言った。
「なぜわかる」
「埃です」彼女は床を指した。「紙の上に、薄く積もっています。一日ではこうなりません」
ラウルは奥へ進んだ。
台所と、寝室。どちらも荒らされていた。
セレナは居間に残り、床の紙を一枚ずつ見ていった。
組合の書類。請求書。二十年前の名簿。
――指示書はない。
「あるはずのものがありません」彼女は言った。「二十年分の指示書」
「隠したんだろう」
「はい。ですが、探した側もそれを知っています」
彼女は棚の裏を覗いた。壁との隙間まで確かめられている。徹底していた。
「セレナ」
ラウルが寝室から呼んだ。
行くと、彼は寝台の脇に立っていた。
床板が一枚、外れている。
「地下があるのか」
「いいえ」セレナは屈んだ。「隠し場所です。ですが――」
彼女は穴に手を入れた。
空だった。
「取られました」
「――くそ」
「いいえ」セレナは手を抜いた。「ここには最初から何もありません」
彼女は指を見せた。埃がついている。
「二十年分の紙を入れていた場所なら、床板の裏に紙の跡が残ります」セレナは言った。「これは、ただの空洞です」
「では、なぜ床板を外した」
「外させたんです」
彼女は立ち上がった。
「ヘルマン様は、ここに隠し場所を作っておいた」セレナは言った。「そして、本物は別の場所に置いた。押し入った側は、これを見つけて、取ったと思ったか、あるいは先を越されたと思ったはずです」
「――どちらにせよ、探すのをやめる」
「はい」
ラウルは床板を戻した。
「あの男、抜け目がないな」
「二十年、生き延びた人です」
組合へ回った。
倉の扉に封が貼られている。王都の調香師組合の印だった。
「――王都の印か」ラウルが言った。
「はい」
「なぜ王都の組合が、アルシェの組合に封をする」
「できません」セレナは言った。「王都の組合は、王都の登録者しか管轄しません」
「では、これは」
「脅しです」彼女は言った。「印を貼っておけば、街の人間は本物だと思います」
セレナは封を近くで見た。
蝋の色。印影。
――本物だ。
王都の組合の印は、三年間毎日見ていた。仕入れの証書に押される。
「印は本物です」彼女は言った。「持ち出せる人間は限られます」
「誰だ」
「理事と、書記です」セレナは言った。「そして理事の一人が、ガレル師です」
ラウルの顔が硬くなった。
「――王都の工房の主人か」
「私の師匠です」
二人は封の前に立っていた。
通りを、荷車が通っていった。
「セレナさん」
背後から声がした。
振り返ると、薬種商の白髪の店主が立っていた。三月前、木札をくれた男だ。
「ご無沙汰しております」
「無沙汰も何も」老人は封を顎で示した。「これのせいで、うちの店も開けられん」
「なぜです」
「組合の倉が封じられれば、仕入れが止まる」店主は言った。「五十軒、全部だ」
セレナは息を吸った。
――そういうことか。
封の目的は、証拠の押収ではない。
組合を止めることだ。
「店主さん」彼女は言った。「ヘルマン様の行方をご存じですか」
老人は、しばらく黙った。
それから、通りの左右を見た。
「――ついてきなさい」
薬種商の店は、坂の中腹にあった。
店主は戸を閉め、閂をかけ、それから奥の間に二人を通した。
「三日前の夜だ」老人は言った。「あいつが来た」
セレナは身を乗り出した。
「ご無事でしたか」
「無事だった。だが顔色は死んでたね」店主は言った。「うちの裏から、桟橋の下へ行った」
「――あの女の方のところですか」
「そうだ」
ラウルが眉を寄せた。
「桟橋の下?」
「元登録者の方です」セレナが言った。「私に灰華を教えてくださった」
「あの女は、二十年前に登録を剥がされてね」店主は言った。「剥がしたのは組合だ。ヘルマンが理事長になる前の話さ」
「では、二人は」
「知り合いだよ。悪い意味でな」老人は湯を沸かしはじめた。「あの女は、若い頃に灰華を扱った。それで剥がされた」
セレナは、桟橋の下の小屋を思い出した。
六つの皿。六つ目に灰華があった。
――あの人は、今も焙っている。
「店主さん」彼女は言った。「あの方は、なぜ今も灰華を持っておられるのですか」
老人は湯を注いだ。
「――売ってるからさ」
「え」
「少量をな。年に何度か、買いに来る人間がいる」店主は言った。「あたしゃ知らんふりをしてきた。あの女には、他に食う手段がない」
セレナは、湯呑みを受け取らなかった。
「買いに来るのは、誰ですか」
「知らん」老人は言った。「だが、あんたが三月前に木札を持って行ったとき、あの女は一度だけ答えると言っただろう」
「はい」
「あれは、あんただけの話じゃない」店主は言った。「あの女は、誰にでも一度だけ答える。買いに来る人間にもだ」
セレナは、その言葉の意味を、少し遅れて理解した。
「――売った相手のことは、二度と話さない」
「そういうことだ」
桟橋の下の小屋は、変わっていなかった。
炉に火が入っている。炭の匂いが濃い。
戸を叩くと、中から声がした。
「開いてる」
セレナが入ると、女は炉の向こうに座っていた。片手の包帯は、新しくなっていた。
そして、その隣に、丸眼鏡の男が座っていた。
「――ヘルマン様」
「無事だ」ヘルマンは言った。声が掠れていた。「三日、ここにいる」
ラウルが戸口で足を止めた。
「ヘルマン」
「坊ちゃん」男は立ち上がろうとして、よろけた。「――申し訳ない。子どもさんは、商会に」
「聞いた。礼を言う」
「礼はいい」
女が火箸で炉を突いた。
「立つな。三日食ってないんだ」
セレナは膝をついた。
「指示書は」
「無事だ」ヘルマンは言った。「ここにはない。だが無事だ」
「どこに」
「言わん」男は首を振った。「言えば、君も同じ位置に立つ」
セレナは、それ以上訊かなかった。
「ヘルマン様。倉に封が貼られています」
「知っている」
「王都の組合の印です」
ヘルマンの顔が上がった。
「――本物か」
「本物です」
男は、しばらく黙った。
それから、乾いた声で笑った。
「――二十年やって、初めて外から来たな」
「どういうことですか」
「この街の話は、この街で片づいてきた」ヘルマンは言った。「二十年、そうだった。組合と商会と別棟。三つで回っていた」
彼は炉の火を見た。
「外を呼んだということは、こちらの手が足りなくなったということだ」




