第三十五話 三年前の目利き
客間の話は、半刻で終わった。
ラウルが出てきたとき、セレナは廊下の突き当たりの窓辺にいた。彼は無言で階段を上がり、事務室に入った。セレナも続いた。
扉を閉めると、彼は上着を椅子に投げた。
「金だ」
「いくらですか」
「三万ドラム」
セレナは息を止めた。
「――工房の年商の、二倍です」
「そう言うと思った」ラウルは椅子に座った。「王都の工房が、辺境の商会に三万借りに来る。まともな話じゃない」
「担保は」
「工房の権利だ。土地と建物と、名前」
彼女は窓辺に手をついた。
「――名前まで」
「そう言った」
セレナは、王都の工房を思い出した。三階建ての石造り。一階が作業場で、二階が調香室。三階が師匠の住まいだった。裏に蒸留室があって、彼女は三年、そこで寝起きしていた。
「返せる当てはあるのか、と訊いた」ラウルは言った。「王家御用達の香がある、と言われた」
「『黎明』ですね」
「そう呼んでいた」彼は言った。「あれの量産で返せる、と」
セレナは、ゆっくりと息を吐いた。
「作れないのに」
「作れないのか」
「作れません」彼女は言った。「原料の素性がわからないからです。柑橘の乾皮を、どこの誰から、どの季節に買うか。記録帳には書いていません」
「なぜ書かなかった」
「覚える必要がなかったからです」セレナは言った。「仕入れに行くのは、いつも私でしたので」
ラウルが、短く笑った。
「――で、あんたが門を出た」
「はい」
「あの女は、それを知っているのか」
セレナは考えた。
「三月前は、知らなかったはずです」彼女は言った。「知っていたら、あの日、私を追い出しません」
「今は」
「知っています」セレナは言った。「三月やって、作れなかったのですから」
ラウルは机の上で指を組んだ。
「では、三万は返せんな」
「返せません」
「担保が流れる」
「――工房の権利が、この商会に来ます」
セレナは、その言葉の形を確かめた。
三月前に自分を追い出した工房が、この街の商会の持ち物になる。
「ラウル様」彼女は言った。「貸してはいけません」
彼が顔を上げた。
「なぜだ」
「取れる、と思っておられますね」セレナは言った。「三万で工房を取れば、私の名前も戻せる。そう考えておられる」
「――考えた」
「駄目です」
「なぜだ」
「私が欲しいのは、工房ではありません」
セレナは机の前に立った。
「あの人たちに、頭を下げさせたいのです」彼女は言った。「商会が金で工房を買えば、頭を下げる相手はあなたです。私ではありません」
ラウルは、しばらく黙っていた。
「――そうか」
「はい」
「わかった。貸さん」
彼は即答した。
セレナは、少し拍子抜けした。
「ずいぶん、あっさりですね」
「三万は出せん」ラウルは言った。「そもそも、うちにそんな余裕はない。六年間、偽物の香料を四倍の値で買い続けた商会だぞ」
「――四千ドラムの損害の、話ですか」
「あれは一回分だ」彼は言った。「六年で、いくら流したと思う」
セレナは、帳簿の十一行を思い出した。
「ラウル様。三年前の目利きの話を、伺いたいのです」
ラウルの指が止まった。
「あれか」
「王都から来た方でしたね」
「そうだ」彼は言った。「組合の紹介だった」
セレナは息を止めた。
「――ヘルマン様の」
「いや。王都の組合だ」ラウルは言った。「うちの仲買が王都に線を持っていて、そこから話が来た。王都の調香師組合が推薦する目利きがいる、と」
「名前は」
「デュラン。四十くらいの男だった」
セレナは、記憶を探った。
王都の組合に登録している目利きの名前は、ほとんど覚えている。仕入れの立ち会いで顔を合わせる相手だ。
「――知りません」
「知らないのか」
「デュランという目利きは、王都にいません」彼女は言った。「少なくとも、三年前にはいませんでした」
ラウルの顔が変わった。
「では、あれは誰だ」
「わかりません」セレナは言った。「ですが、王都の組合が推薦したというのが嘘なら、話を持ってきた仲買が嘘をついています」
「――仲買は」
「調べられますか」
「調べる」ラウルは立ち上がった。「うちの仲買は十二人だ。三年前に王都の線を持っていたのは、二人しかいない」
その夜、二人は帳簿を開いた。
三年前の記録。目利き雇用の項がある。
「デュラン、報酬・銀貨三十枚。紹介、仲買ボリス」
「ボリスとは」セレナが訊いた。
「今もうちにいる」ラウルは言った。「河港の詰所を仕切っている」
「三年前から」
「十年以上だ」
セレナは筆を止めた。
「ラウル様。その方は、私が来てから何をされていましたか」
「――検分に立ち会っている」
「毎回ですか」
「毎回だ」
彼女は顔を上げた。
「では、私の判定を、毎回見ています」
ラウルの手が、机の上で止まった。
「――あの男が」
「わかりません」セレナは言った。「ですが、三年前に偽物の目利きを連れてきた人間が、今も検分の場にいます」
「なぜ今まで気づかなかった」
「気づく理由がなかったからです」彼女は言った。「私は品物を見ていて、人を見ていませんでした」
セレナは帳簿を閉じた。
「一つ、思い出したことがあります」
「言え」
「三月前、卸売場で安息香の贋物を見ました」彼女は言った。「あのとき、商人がこう言いました。アーデンフェルト商会も同じ産地から買っている、と」
「それがどうした」
「あの言い方は、こちらが商会と繋がっていることを知らない相手の言い方です」セレナは言った。「私はまだ雇われる前でした。それなのに、あの商人は商会の仕入れ先を知っていた」
「――当たり前だろう。同じ卸売場だ」
「産地までは、普通わかりません」彼女は言った。「商会がどこの誰から買っているかは、仲買しか知りません」
ラウルの目が細くなった。
「漏れているということか」
「漏れているというより」セレナは言った。「共有されています」
翌朝、セレナは河港の詰所へ行った。
ボリスは、五十がらみの大柄な男だった。禿げ上がった頭に、赤い顔。荷役たちに指示を出す声が大きい。
「おう、目利きの姉ちゃん」男は手を上げた。「久しぶりだな。旅に出てたって?」
「南へ行っておりました」
「南か。いいねえ」
セレナは詰所の壁に寄りかかった。匂い袋が、壁の釘に三つ下がっている。
「これ、売れておりますか」
「売れてるよ」ボリスは言った。「うちの若いのも下げてる」
「ありがとうございます」
彼女は男の顔を見た。愛想がいい。愛想がよすぎるとは思わなかった。この街の詰所を仕切る男は、みんなこういう顔をしている。
「ボリスさん。一つ伺ってもよろしいですか」
「なんだい」
「三年前に、デュランという目利きの方がおられたそうですね」
男の顔が、変わらなかった。
変わらなさすぎた。
「――ああ、いたな」彼は言った。「あれは、まいったよ」
「ご紹介されたと伺いました」
「そうだよ。俺が持ってきた話だ」ボリスは頭を掻いた。「王都の線から来た話でな。まさか偽物とは思わなかった」
「その線というのは」
「王都の仲買だ。バルタと言ってな。十年来の付き合いだった」
「だった、というのは」
「あれ以来、切った」男は言った。「四千ドラム持っていかれたんだ。当たり前だろう」
セレナは頷いた。
筋が通っている。通りすぎている。
「切られたあと、その方はどうされましたか」
「知らんよ」
「王都にいらっしゃるのでしょうか」
「知らんと言ってるだろ」ボリスの声が、わずかに硬くなった。「なんでそんなこと訊く」
セレナは、微笑んだ。
「今、王都から工房の方がお見えです」彼女は言った。「その方が、王都の仲買の話をされていましたので」
男の目が動いた。
一瞬だった。だが、はっきりと動いた。
「――客間の、お嬢さんか」
「はい」
「そりゃ、何の話だ」
「私は伺っておりません」セレナは言った。「ただ、名前が出たと聞きました」
嘘だった。
ボリスは、しばらく黙った。
「――姉ちゃん」
「はい」
「余計なことは、聞かんほうがいい」
男は荷役の方へ歩いていった。
セレナは壁に寄りかかったまま、その背中を見送った。
匂いがした。
汗と、麻と、河の匂い。それから、ごく薄く――香の匂い。
乳香。白檀。丁子。
三月前、別棟の書斎で嗅いだのと、同じ組み合わせだった。




