↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奪われた香りは、私のものです ~王家御用達の調香師見習いは、追われた辺境で自分の工房を持つことにした~  作者: やまご


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/55

第三十四話 客間の人

 河港に着いたのは、八日目の朝だった。

 霧が濃い。船が桟橋に寄せられ、綱が投げられる。セレナは手すりから身を乗り出して、岸を見た。

 誰もいない。

「――リタがいません」

「ヘルマンもだ」ラウルが言った。

 ヴィオラが二人の間から桟橋を見た。

「約束していらしたのですか」

「していません」セレナは言った。「ですが、あの子は八日で帰ると言えば、桟橋で待つ子です」

 船を降りると、荷役が数人、荷を解いていた。顔見知りの男がいた。匂い袋を最初に買った、あの荷揚げの女の亭主だ。

「姉ちゃん、帰ってきたのか」

「はい。何かありましたか」

 男は手を止め、周りを見た。

「――組合が、揉めてる」

 セレナは荷を置いた。

「三日前だ。王都から役人みたいなのが来てな。組合の倉に入った」男は声を落とした。「理事長が呼び出されて、それきり顔を見ない」

「ヘルマン様が」

「潰されるんじゃねえかって、みんな言ってる」

 ラウルが妹の腕を取った。

「先に商会へ行く」


 坂を登る間、セレナは考えていた。

 三日前。自分たちが南にいた頃だ。

 王都から役人が来て、組合の倉に入った。ヘルマンが呼び出された。

 ――偶然ではない。

 こちらが八日、街を空けた。その空白を、正確に使われている。

「ラウル様」彼女は言った。「ヘルマン様は、指示書の原本を隠しておられます」

「――倉には無いな」

「無いはずです。ですが、倉に入られた時点で、隠したことは伝わります」

 ラウルの足が速くなった。


 商会の土間に入ると、マルタが飛び出してきた。

「坊ちゃん!」

 太い腕が、ラウルの袖を掴んだ。この女がそんなふうに主人に触れるのを、セレナは初めて見た。

「リタは」セレナが訊いた。

「台所にいるよ。無事だ」マルタは即座に言った。「三日前、ヘルマンさんが自分でここへ連れてきた。組合に置いておけないからって」

 セレナは息を吐いた。膝の力が抜けそうになるのを、腹に力を入れて堪えた。

「ヘルマン様は」

「そのまま行った。それきりだ」

 マルタは、ヴィオラを見た。

 その顔が、ゆっくりと崩れた。

「――お嬢さま」

「マルタ」

「お嬢さま」女は両手を口に当てた。「大きくなられて」

「六年ですもの」

「痩せておられる」マルタの声が震えた。「痩せておられますよ。何を食べてらしたんです」

 ヴィオラが、少し笑った。

「南は、果物ばかりでしたので」

「駄目です。今日から食べていただきます」

 マルタは袖で目を拭い、それから台所の方へ怒鳴った。

「リタ! 帰ってきたよ!」

 板を蹴るような足音がした。

 子どもが階段を駆け下りてきて、土間の真ん中で止まった。

 セレナを見て、それから走った。

 ぶつかってきた勢いで、セレナは半歩下がった。腕の中で、子どもの背中が震えている。

「――八日」リタが言った。「八日って言った」

「言ったわね」

「八日だった」

「守ったでしょう」

「うん」

 子どもは顔を上げなかった。セレナは、その頭に手を置いた。

 三月前、路地の入口でくさいと言った子だ。あのとき、この子は素足だった。


「坊ちゃん」マルタが声を落とした。「それと、もう一つあります」

 ラウルが振り返った。

「なんだ」

「客間に、お客さんが」

「誰だ」

「王都から」女は言った。「三日前に来て、そのまま泊まってます。ジョスラン様がお通しになりました」

 セレナの背筋が冷えた。

「叔父は」ラウルが言った。

「別棟におられます。ですが、客間には毎日顔を出されます」

「名は」

 マルタは少し口ごもった。

「――ヴァイル、と」

 土間の音が、消えた。

 セレナは、自分の呼吸が止まったのがわかった。

「ヴァイル工房の、ミレイユ様とおっしゃる方です」マルタは言った。「若いお嬢さんで、坊ちゃんに会いたいと」

 ラウルがセレナを見た。

 彼女は、まだ動けなかった。

 リタが顔を上げた。

「セレナ、どうしたの」

「――なんでもない」

「うそ」

 セレナは子どもの肩に手を置いて、それから背筋を伸ばした。

「マルタさん。その方は、私が来ていることをご存じですか」

「さあ。名前は出しませんでしたが」

「ジョスラン様は、ご存じです」

「――そりゃ、まあ」

 セレナは頷いた。

 三月前、別棟の書斎で、あの男は自分の前歴を追わなかった。追わなかったのは、既に知っていたからだ。

 そして八日の空白に、王都から義姉を呼んだ。

「ラウル様」彼女は言った。「これは、こちらへの手です」

「わかっている」

「私を潰すために呼ばれています」

「そうだろうな」ラウルは上着を脱いだ。「だが、向こうも駒だ」

「――と、いいますと」

「三年前、俺を騙した目利きは王都から来た」彼は言った。「文の紙が北のものに変わったのも三年前だ。叔父は三年前から王都に線を持っている」

 セレナは、頭の中で二つの線を重ねた。

 王都のヴァイル工房。アルシェの別棟。

 三年前から繋がっている。

「では、義姉が来たのは」

「叔父が呼んだんじゃない」ラウルは言った。「向こうから来た可能性がある」

 彼は客間の方を見た。

「王都の工房は、いま金に困っているんだったな」

「はい」セレナは言った。「『黎明』を再現できず、原料を投げ売りしています」

「そういう相手が、遠い辺境の商会に来る理由は一つだ」

 ラウルは襟を直した。

「金を借りに来た」


 客間の扉の前で、セレナは足を止めた。

「私は入りません」

「入れ」

「いま顔を合わせても、こちらに得がありません」彼女は言った。「向こうは私がこの街にいることを知りません。知らないままにしておけば、あちらは油断します」

 ラウルは扉に手をかけた。

「――それでいいのか」

 セレナは、自分の指が冷たいのに気づいた。

 三月前、あの人は二階の窓からこちらを見て、片づけの済んだ部屋を確認する顔で窓を閉めた。

 いま、扉一枚向こうにいる。

「よくありません」彼女は言った。「ですが、順番があります」

 ラウルが、少しだけ笑った。

「――あんたらしいな」

 彼は扉を開けて、中へ入った。

 扉が閉まる直前、女の声が聞こえた。

 三年ぶりの声だった。

「――お会いできて光栄です、アーデンフェルト様」

 セレナは廊下に立ったまま、その声を聞いていた。

 背中に、リタの小さな手が触れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。