第三十四話 客間の人
河港に着いたのは、八日目の朝だった。
霧が濃い。船が桟橋に寄せられ、綱が投げられる。セレナは手すりから身を乗り出して、岸を見た。
誰もいない。
「――リタがいません」
「ヘルマンもだ」ラウルが言った。
ヴィオラが二人の間から桟橋を見た。
「約束していらしたのですか」
「していません」セレナは言った。「ですが、あの子は八日で帰ると言えば、桟橋で待つ子です」
船を降りると、荷役が数人、荷を解いていた。顔見知りの男がいた。匂い袋を最初に買った、あの荷揚げの女の亭主だ。
「姉ちゃん、帰ってきたのか」
「はい。何かありましたか」
男は手を止め、周りを見た。
「――組合が、揉めてる」
セレナは荷を置いた。
「三日前だ。王都から役人みたいなのが来てな。組合の倉に入った」男は声を落とした。「理事長が呼び出されて、それきり顔を見ない」
「ヘルマン様が」
「潰されるんじゃねえかって、みんな言ってる」
ラウルが妹の腕を取った。
「先に商会へ行く」
坂を登る間、セレナは考えていた。
三日前。自分たちが南にいた頃だ。
王都から役人が来て、組合の倉に入った。ヘルマンが呼び出された。
――偶然ではない。
こちらが八日、街を空けた。その空白を、正確に使われている。
「ラウル様」彼女は言った。「ヘルマン様は、指示書の原本を隠しておられます」
「――倉には無いな」
「無いはずです。ですが、倉に入られた時点で、隠したことは伝わります」
ラウルの足が速くなった。
商会の土間に入ると、マルタが飛び出してきた。
「坊ちゃん!」
太い腕が、ラウルの袖を掴んだ。この女がそんなふうに主人に触れるのを、セレナは初めて見た。
「リタは」セレナが訊いた。
「台所にいるよ。無事だ」マルタは即座に言った。「三日前、ヘルマンさんが自分でここへ連れてきた。組合に置いておけないからって」
セレナは息を吐いた。膝の力が抜けそうになるのを、腹に力を入れて堪えた。
「ヘルマン様は」
「そのまま行った。それきりだ」
マルタは、ヴィオラを見た。
その顔が、ゆっくりと崩れた。
「――お嬢さま」
「マルタ」
「お嬢さま」女は両手を口に当てた。「大きくなられて」
「六年ですもの」
「痩せておられる」マルタの声が震えた。「痩せておられますよ。何を食べてらしたんです」
ヴィオラが、少し笑った。
「南は、果物ばかりでしたので」
「駄目です。今日から食べていただきます」
マルタは袖で目を拭い、それから台所の方へ怒鳴った。
「リタ! 帰ってきたよ!」
板を蹴るような足音がした。
子どもが階段を駆け下りてきて、土間の真ん中で止まった。
セレナを見て、それから走った。
ぶつかってきた勢いで、セレナは半歩下がった。腕の中で、子どもの背中が震えている。
「――八日」リタが言った。「八日って言った」
「言ったわね」
「八日だった」
「守ったでしょう」
「うん」
子どもは顔を上げなかった。セレナは、その頭に手を置いた。
三月前、路地の入口でくさいと言った子だ。あのとき、この子は素足だった。
「坊ちゃん」マルタが声を落とした。「それと、もう一つあります」
ラウルが振り返った。
「なんだ」
「客間に、お客さんが」
「誰だ」
「王都から」女は言った。「三日前に来て、そのまま泊まってます。ジョスラン様がお通しになりました」
セレナの背筋が冷えた。
「叔父は」ラウルが言った。
「別棟におられます。ですが、客間には毎日顔を出されます」
「名は」
マルタは少し口ごもった。
「――ヴァイル、と」
土間の音が、消えた。
セレナは、自分の呼吸が止まったのがわかった。
「ヴァイル工房の、ミレイユ様とおっしゃる方です」マルタは言った。「若いお嬢さんで、坊ちゃんに会いたいと」
ラウルがセレナを見た。
彼女は、まだ動けなかった。
リタが顔を上げた。
「セレナ、どうしたの」
「――なんでもない」
「うそ」
セレナは子どもの肩に手を置いて、それから背筋を伸ばした。
「マルタさん。その方は、私が来ていることをご存じですか」
「さあ。名前は出しませんでしたが」
「ジョスラン様は、ご存じです」
「――そりゃ、まあ」
セレナは頷いた。
三月前、別棟の書斎で、あの男は自分の前歴を追わなかった。追わなかったのは、既に知っていたからだ。
そして八日の空白に、王都から義姉を呼んだ。
「ラウル様」彼女は言った。「これは、こちらへの手です」
「わかっている」
「私を潰すために呼ばれています」
「そうだろうな」ラウルは上着を脱いだ。「だが、向こうも駒だ」
「――と、いいますと」
「三年前、俺を騙した目利きは王都から来た」彼は言った。「文の紙が北のものに変わったのも三年前だ。叔父は三年前から王都に線を持っている」
セレナは、頭の中で二つの線を重ねた。
王都のヴァイル工房。アルシェの別棟。
三年前から繋がっている。
「では、義姉が来たのは」
「叔父が呼んだんじゃない」ラウルは言った。「向こうから来た可能性がある」
彼は客間の方を見た。
「王都の工房は、いま金に困っているんだったな」
「はい」セレナは言った。「『黎明』を再現できず、原料を投げ売りしています」
「そういう相手が、遠い辺境の商会に来る理由は一つだ」
ラウルは襟を直した。
「金を借りに来た」
客間の扉の前で、セレナは足を止めた。
「私は入りません」
「入れ」
「いま顔を合わせても、こちらに得がありません」彼女は言った。「向こうは私がこの街にいることを知りません。知らないままにしておけば、あちらは油断します」
ラウルは扉に手をかけた。
「――それでいいのか」
セレナは、自分の指が冷たいのに気づいた。
三月前、あの人は二階の窓からこちらを見て、片づけの済んだ部屋を確認する顔で窓を閉めた。
いま、扉一枚向こうにいる。
「よくありません」彼女は言った。「ですが、順番があります」
ラウルが、少しだけ笑った。
「――あんたらしいな」
彼は扉を開けて、中へ入った。
扉が閉まる直前、女の声が聞こえた。
三年ぶりの声だった。
「――お会いできて光栄です、アーデンフェルト様」
セレナは廊下に立ったまま、その声を聞いていた。
背中に、リタの小さな手が触れた。




