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奪われた香りは、私のものです ~王家御用達の調香師見習いは、追われた辺境で自分の工房を持つことにした~  作者: やまご


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第三十三話 棚卸しの日

 四日目の朝、山は晴れていた。

 棚卸しの日は、屋敷の人間が総出で倉に入る。畑にも人が出ない。

 ヴィオラは、約束の刻限より半刻早く来た。

 荷は小さな包みが一つだけだった。

「それだけか」ラウルが言った。

「持ち出せるのは、これだけです」妹は言った。「大きな荷を作れば、すぐに気づかれます」

 セレナは包みを見た。膨らみ方が、衣類ではない。

「中身を伺っても」

「紙です」ヴィオラは言った。「六年分の、叔父さまからの文」

 セレナは息を吸った。

「――全部ですか」

「週に一度が三月、それ以前は月に一度が六年」娘は言った。「二百通ほどあります」

「保管しておられたのですね」

「捨てられませんでした」ヴィオラは包みを抱え直した。「捨てれば、六年間何もなかったことになる気がして」

 ラウルが妹の包みに手を伸ばした。

「持つ」

「重くありません」

「持つ」

 彼は半ば奪うようにして受け取った。ヴィオラは少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。


 港までは、林を迂回した。

 畑の道を通れば人目につく。四の段より上の林を横切って、東の谷筋から降りる。ヴィオラが道を知っていた。

「よく歩かれるのですか」 セレナが訊いた。

「六年、これしかすることがありませんでしたので」娘は言った。「屋敷の外へ出るのは許されていましたが、町へ降りるのは駄目でした。ですから、山ばかり」

「四の段より上も」

「はい」

 セレナは足を止めた。

「あの樹脂の木を、ご存じですか」

 ヴィオラが振り返った。

「――母の木です」

 セレナの背筋が伸びた。

「母の木、と呼ばれているのですか」

「わたくしがそう呼んでいるだけです」娘は言った。「屋敷の古い者に聞きました。母が娘の頃、あの林で樹脂を採っていたと」

「今も採られています」

「叔父さまの指示です」ヴィオラは言った。「年に二度、人を入れて採らせています」

「用途は」

「知りません」

 三人は歩いた。

 谷筋に入ると、道が険しくなった。石が濡れていて滑る。ラウルが先に立ち、妹に手を貸した。

「兄さま」

「なんだ」

「六年前、わたくしを南へやったのは」

「俺だ」

「叔父さまではなく」

 ラウルが足を止めた。

「――俺だ」彼は言った。「お前が三日眠って起きたあと、俺は迫った。お前は泣いた。その日の夜、叔父が言った。南へやったほうがいいと」

「兄さまは、なんと」

「そうだなと言った」

 彼は谷を見下ろした。

「俺が決めた」ラウルは言った。「叔父が勧めたが、決めたのは俺だ。それは俺の責任だ」

 ヴィオラは、しばらく兄の背中を見ていた。

「――兄さま」

「なんだ」

「わたくしは、南へ来てよかったと思っています」

 彼が振り返った。

「六年、屋敷にいました。山を歩きました。母の生まれた土地を見ました」娘は言った。「北にいたら、わたくしは兄さまの顔を見るたびに死にたくなっていました」

 ラウルの顔が歪んだ。

「――それは」

「兄さまのせいではありません」ヴィオラは言った。「わたくしが弱かったのです」

 彼女は谷を降りはじめた。

「ですが、六年で足ります」


 港には、便船が入っていた。

 北行きの船は、三日に一度しか出ない。棚卸しの日と重なったのは偶然ではなく、ヴィオラが日を選んだのだった。

「切符は、わたくしが買います」娘は言った。「兄さまが買えば、目立ちます」

「金はある」

「顔が違います」ヴィオラは言った。「兄さまは荷役の格好をしていても、荷役の顔をしていません」

 セレナは、思わず頷きそうになった。

 ラウルが不服そうにした。

「――どこが違う」

「立ち方です」妹は言った。「荷役の方は、待つときに壁に寄りかかります。兄さまは、まっすぐ立っています」

 彼は無言で、近くの柱に寄りかかった。

 ヴィオラが笑った。

 セレナは、その笑い方が兄に似ていることに気づいた。


 船が出たのは、昼過ぎだった。

 港が遠ざかっていく。白い町と、その背後の山。段々畑が三段。その上の林。

 ヴィオラは、手すりに寄りかかって町を見ていた。

「振り返らないと思いました」セレナが隣に立った。

「振り返ります」娘は言った。「戻るつもりですから」

「――戻られるのですか」

「いつか」ヴィオラは言った。「母の木は、あの山にしかありません。あれを使う人間がいなくなれば、林が荒れます」

 セレナは、山を見た。

 樹皮に傷をつけて、樹脂を採る。その傷は、正しくつければ木を殺さない。間違えれば枯らす。

 二十年、あの林は正しく管理されてきた。

「ヴィオラ様」

「はい」

「北で、記憶を戻す試みをします」セレナは言った。「ですが、その前に一つ、お約束いただきたいことがあります」

「なんでしょう」

「思い出せなかったときに、諦めてください」

 娘が顔を向けた。

「一度だけです」セレナは言った。「二度目はやりません。私がやらないと決めたら、あなたが何と言おうとやりません」

「――厳しいですね」

「はい」

 ヴィオラは、しばらく海を見ていた。

「わかりました」彼女は言った。「一度だけ」

「約束ですね」

「約束します」

 セレナは頷いた。

 それから、少し迷って、言葉を足した。

「――ヴィオラ様。もし思い出せなくても、あなたが何をしようとしていたかは、もうわかっています」

「灰華を足したことですか」

「はい」セレナは言った。「あなたは、告発しようとしていた。十七で、一人で」

 娘は目を伏せた。

「証拠はありません」

「証拠はありません」セレナは認めた。「ですが、あなたの手つきが証拠です」

「――手つき」

「十四本の試作を見ました」彼女は言った。「九本目まで、札の字は落ち着いています。十本目から乱れます。日付が消えます。あれは、怖がっている人間の字です」

 ヴィオラの指が、手すりの上で動いた。

「怖がりながら、手は止めていません」セレナは言った。「怖くて、それでも作った。その順番が、全部残っています」

 娘は、しばらく黙っていた。

 やがて、彼女は小さく言った。

「――ありがとうございます」


 四日目の夜、船倉で三人は並んで座った。

 ヴィオラは包みを開き、文を日付順に並べはじめた。

 二百通。同じ筆跡が、六年分。

「読みますか」ラウルが言った。

「読みます」セレナは言った。「ですが、今は違う読み方をします」

「どう読む」

「内容は読みません」彼女は言った。「紙と、字だけ見ます」

 セレナは一通目を手に取った。

 六年前のものだ。紙は少し黄ばんでいる。

 二通目、三通目と並べていく。

 五十通ほど並べたところで、彼女は手を止めた。

「――変わっています」

「何がだ」

「紙です」セレナは二通を並べた。「三年前を境に、紙の質が変わっています」

 ラウルが覗き込んだ。

「同じに見えるが」

「厚みが違います」彼女は指で挟んだ。「それに、こちらは目が粗い。南の紙です」

「では、こちらは」

「北の紙です」セレナは言った。「王都の近くで漉かれるものです。王都の工房で、毎日触っていました」

 ヴィオラが顔を上げた。

「叔父さまは、南へ文を出すときに、南の紙を使っておられたのですね」

「三年前までは」セレナは言った。「三年前から、北の紙になっています」

「――何が変わったのですか」

 セレナは、日付を確かめた。

 三年前。

「ラウル様」彼女は言った。「三年前に、何かありましたか」

 ラウルは考えた。

「――三年前は」彼の顔が変わった。「俺が、目利きに騙された年だ」

「四千ドラムの」

「そうだ」

 セレナは文の束を見た。

「その目利きは、どこから来ましたか」

 ラウルの手が止まった。

「――王都だ」

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