第三十二話 雨の音
薪の向こうで、雨の音がしていた。
セレナは動かなかった。
もう要らなくなった。その言葉の意味を、頭が二通りに解いた。一つは、鼻が戻ったから目利きが要らないということ。もう一つは。
「――ラウル様」
「言うぞ」
「待ってください」
彼女は薪の隙間から出た。
小屋の土間で、ラウルは戸口の近くに座っていた。開けた戸から雨が斜めに入って、板を濡らしている。彼はその手前で、膝を立てて座っていた。
「待てと言われても待たん」ラウルは言った。「三日ここにいて、それしか考えていなかった」
「なぜ、今なのですか」
「明日、妹が来る」彼は言った。「北へ戻れば、また動きはじめる。次に静かな時間があるかどうか、わからん」
セレナは戸口の反対側に座った。
距離を取ったのは、意識してのことだった。
「言われる前に、私から申し上げます」彼女は言った。「私は、あなたに雇われています」
「知っている」
「雇い主と雇われの間で、その話をするのは公平ではありません」セレナは言った。「私は断りにくい位置にいます」
ラウルは、少し黙った。
「――それは、断りたいということか」
「違います」
「では何だ」
「順番の話です」セレナは言った。「私は、順番が狂うのが嫌いです」
雨が屋根を鳴らした。
「腐った木を替えて、腐ったものを出して、床を焼く」彼女は言った。「全部やらないと、匂いは戻ります。順番を飛ばすと、必ず後で戻る」
「――俺との話も、順番があるのか」
「あります」
セレナは膝の上で手を組んだ。
「今、私はあなたの家の問題の中にいます」彼女は言った。「あなたの鼻を戻し、あなたの叔父を疑い、あなたの妹を北へ連れ帰ろうとしています。この状態で何かを言われても、私はそれが何に対する言葉なのか、判別できません」
「感謝だと思うか」
「思います」セレナは言った。「六年ぶりに匂いが戻った人が、戻した人間に抱く感情は、区別がつきにくいものです」
ラウルは雨を見ていた。
「――あんたは、自分をずいぶん安く見積もるな」
「安くはありません」彼女は言った。「正確に見積もっています」
「なら、俺に見積もらせろ」
彼は振り返った。
「三月前、あんたは十二本の瓶を四半刻で分けた」ラウルは言った。「あのとき俺が思ったのは、これで損害が止まる、それだけだ」
「はい」
「一月後、あんたは灰華の話を持ってきた。証拠がないと言いながら、自分が灰華を手に入れたことを先に申告した」彼は言った。「あのとき、俺は初めて、こいつは信用できると思った」
「取引として合理的な行動です」
「合理的な人間は、自分から不利な情報を出さん」ラウルは言った。「あんたは、疑われる余地を先に潰した。それは信用のために自分の安全を削る行為だ」
セレナは、言い返せなかった。
「三日で二十二冊読んだ」彼は続けた。「二十年分の写しを一晩で読み切った。子どもに銅貨を払えと言った。ヘルマンを責めずに仕事をさせた。祭の香を作って、街を俺に返した」
「――ラウル様」
「言い終わっていない」
彼は膝に肘を置いた。
「妹に会って、あんたは止めなかった」ラウルは言った。「俺は止めた。あんたは止めずに条件を三つ出した。あれを聞いたとき、俺は自分が妹に何をしてきたかがわかった」
雨の音が、少し弱まった。
「六年前、俺は妹に言えと迫った。守ろうとして、追い詰めた」彼は言った。「あんたは、やりたいなら条件を決めましょうと言った。同じことをやらせているのに、あいつは初めて息をしていた」
セレナは、膝の上の手を見た。
「――それは、私が冷たいからです」
「そうかもしれん」ラウルは言った。「だが、あんたの冷たさは人を殺さない」
彼女は顔を上げた。
「俺の熱さは、人を六年閉じ込めた」
小屋が静かになった。
セレナは、しばらく言葉を探した。
「――ラウル様。それは、私を評価しておられるだけです」
「そうだ」
「評価と、その先は違います」
「違うか?」ラウルは言った。「俺は商人だ。人を値で測る。測った結果、この人間と長く組みたいと思ったら、それが答えだ」
「私は品物ではありません」
「品物なら値をつける」彼は言った。「あんたには値がつかん。だから困っている」
セレナは、思わず息を吐いた。
笑ってしまったのだ、と後から気づいた。
「――笑ったな」
「笑いました」
「初めて見た」
「そうかもしれません」
彼女は膝を抱えた。
雨が細くなっていた。屋根の音が、粒から線に変わっている。
「ラウル様。答えを、今は出せません」
「わかっている」
「ですが、理由を申し上げます」セレナは言った。「私は三月前に、名前を奪われました」
「ああ」
「あのとき、私は自分の中の何かを一度、閉じました」彼女は言った。「怒りを作業に変える癖がついたのは、そのときです。泣かずに手を動かす。そうしないと、立てなかったので」
ラウルは黙って聞いていた。
「三月経って、私はこの街で工房を持ちました。仕事があります。弟子もいます」セレナは言った。「ですが、閉じたものは、まだ閉じたままです」
「――開けろとは言わん」
「開けたいとは思っています」彼女は言った。「ただ、順番があります」
「王都か」
「はい」
セレナは、はっきり言った。
「私は、あの人たちに頭を下げさせます。登録を返しに来させます」彼女は言った。「それが済むまで、私は自分のことを何一つ決められません」
ラウルは、しばらく雨を見ていた。
「――待てばいいのか」
「待たなくて結構です」セレナは言った。「私はいつになるかわかりません。三年かもしれないし、五年かもしれません」
「待つ」
「ラウル様」
「三年半の先買権を取った男だぞ」彼は言った。「待つのは得意だ」
セレナは、また笑いそうになった。
今度は堪えた。
「――一つだけ、申し上げます」
「なんだ」
「私は、あなたに会えてよかったと思っています」
彼女は雨の方を見た。顔を見せないためだった。
「三月前、私は捨てられる原料を抱えて王都を出ました」セレナは言った。「あれを買い取ってくださったのは、あなたです。値打ちがないと言った私に、値は俺が決めると言った」
「損得の話だ」
「損得の話をしてくださったから、私はここにいます」彼女は言った。「同情されていたら、たぶん三月ももちませんでした」
ラウルは何も言わなかった。
やがて、彼は立ち上がった。
「――雨が上がる」
「はい」
「明日、妹が来る」
「はい」
「北へ帰ったら、全部片づける」ラウルは言った。「叔父も、王都も」
セレナは顔を上げた。
「王都は、私の仕事です」
「知っている」彼は戸口に立った。「だが、あんたが王都に行くとき、俺は商会の船を出す」
「――お気遣いなく」
「気遣いじゃない」ラウルは言った。「見たいだけだ」
「何をですか」
彼は振り返った。
雨上がりの光が、戸口から差し込んでいた。
「あんたが、名前を取り返すところをだ」




