第三十一話 三日の畑
窯小屋での三日は、静かだった。
昼は動けない。畑には人が来る。セレナとラウルは小屋の奥、薪を積んだ隙間に身を潜めた。
夜だけ、外に出られた。
一日目の夜、セレナは畑を歩いた。
三の段は二十番の草。二の段は乳香の低木。一の段には、背の低い蔓性の植物が這っていた。
「これは何だ」ラウルが訊いた。
「わかりません」セレナは葉を潰した。「――甘い。花の匂いではなく、根の甘さです」
「食えるのか」
「食べないでください」
彼女は上を見た。
四の段から上は、山の斜面が急になっている。段はそこで終わり、あとは自然の林だった。
「四の段より上は」
「畑ではないな」
「行ってみましょう」
林に入ると、匂いが変わった。
湿った土。腐葉。それから、樹脂。
セレナは足を止めた。
「――これは、乳香ではありません」
「別の木か」
「もっと重い」彼女は幹に近づいた。「没薬に近いですが、違います」
月明かりで、樹皮が見えた。傷がついている。人為的な傷だ。斜めに切り込みが入れられ、そこから樹脂が滲んで固まっていた。
「採っています」セレナは言った。「これは、管理された林です」
「畑の続きか」
「畑より古いと思います」
彼女は樹脂の塊を一つ、指で剥がした。
布に包んで、匂いを確かめる。
――知らない匂いだ。
重い。苦い。だが、後ろに甘さがある。
セレナは、その甘さの形に覚えがあった。
「ラウル様」
「なんだ」
「二十三番に、これが入っています」
彼が振り返った。
「――調合済みの香か」
「はい」セレナは樹脂を布に包み直した。「あの香の、後ろで支えている面が、これです」
ラウルは林を見回した。
「母は、ここで採ったものを使っていたのか」
「そうだと思います」
セレナは、傷のついた木を見上げた。
樹皮の切り込みは、新しいものも古いものもあった。古いものは十年以上経っている。新しいものは、この一年のうちだ。
――今も採られている。
二日目の夜、二人は小屋の中で樹脂を焙った。
窯は使わず、小さな炭火でやった。
匂いが立つ。
「――これだ」セレナは言った。「二十三番の後ろにあるのは、これで間違いありません」
「では、母の香は」
「この山で採れるものだけで組まれています」彼女は言った。「乳香、この樹脂、それから一の段の蔓と、二の段の低木」
「王都のものは」
「入っていません」
セレナは炭火を見た。
「ラウル様。二十三番は、この土地の香です」
彼は板に腰を下ろした。
「母は、これを北へ持っていった」
「はい」
「なぜだ」
「見本だからでしょう」セレナは言った。「自分が学んだ場所の香を、一本だけ持っていく。それは、故郷を持っていくのと同じです」
ラウルは、しばらく黙っていた。
「――俺は、母のことをほとんど知らん」
「十一歳で亡くされたのですね」
「ああ」彼は言った。「覚えているのは、いつも二階の部屋にいたことだ。香の部屋があった。俺は入れてもらえなかった」
「なぜ」
「男の子は、と言われた」ラウルは言った。「香は女が継ぐ家だと。だから、俺は交易を仕込まれた」
セレナは炭火に手をかざした。
「ヴィオラ様が一歳のときに、お母様が亡くなられました」
「そうだ」
「では、香を継ぐ人がいなくなりましたね」
ラウルが顔を上げた。
「――そうか」
「お母様が亡くなった時点で、この家の香は途切れました」セレナは言った。「継ぐはずの娘は一歳。教える人はいない。匣だけが残った」
彼女は樹脂の欠片を見た。
「そして十五年前から、灰華の受け取りは叔父さまになっています」
小屋が静かになった。
「――叔父が、代わりに受け取った」
「そう見えます」セレナは言った。「ですが、順番が逆かもしれません」
「どういうことだ」
「お母様が亡くなったから、叔父さまが受け取ったのか」彼女は言った。「それとも、叔父さまが受け取りたかったから、お母様が」
ラウルの顔が、こわばった。
「――待て」
「言い切りません」セレナは言った。「ですが、可能性として置いておくべきです」
「母は病死だ」
「そう聞かされているだけです」
「――医者が」
「六年前、あなたの鼻も、医者は原因を言い当てられませんでした」
ラウルは立ち上がり、小屋の中を歩いた。
二歩、三歩。それから壁に手をついた。
「セレナ」
「はい」
「あんたは、どこまで疑う」
「疑えるところまで、全部です」彼女は言った。「疑って外れれば、それでいい。疑わずに見落とすほうが、取り返しがつきません」
彼は壁に額をつけた。
「――母もか」
「わかりません」
「俺は、何を知らずに生きてきた」
セレナは、答えを持っていなかった。
代わりに、炭火に樹脂をもう一片落とした。
重い匂いが立った。
「ラウル様。今わかっていることだけを、数えましょう」彼女は言った。「わからないことを数えると、足がすくみます」
彼は壁から顔を離した。
「――数えろ」
「一つ。灰華は二十年以上、南から北へ流れています」
「二つ」ラウルが言った。「組合が受け取り、焙り、別棟へ渡している」
「三つ。十五年前から受取人は叔父さま。それ以前は家名のみ」
「四つ。六年前、俺の食事と寝具に灰華が入った」
「五つ。同じ年、妹さんは匣を渡され、九本を試して記憶を失いました」
「六つ」彼は言った。「妹の香は無害だった」
「七つ。妹さんは最後に灰華を足した。おそらく告発のために」
セレナは指を折り終えた。
「八つ目があります」
「なんだ」
「三月前、南からもう一つの匣が運び出されました」
ラウルが目を上げた。
「――中身が不明の方だな」
「はい」セレナは言った。「そして三月前は、私があなたに雇われた時期です」
小屋の中で、炭が爆ぜた。
「偶然でしょうか」
「――偶然だろう」
「私もそう思いたいです」彼女は言った。「ですが、こうも考えられます」
セレナは炭火を見た。
「あちらは三月前、あなたが目利きを雇ったことを知りました」彼女は言った。「目利きを雇えば、いずれ食事の経路に気づかれる。気づかれたら、灰華は使えなくなる」
「――だから」
「別の手を用意した」セレナは言った。「もう一つの匣を、北へ運ばせた」
ラウルの顔から色が引いた。
「中身は」
「わかりません」
「――二十四本、また薬か」
「わかりません」セレナは繰り返した。「ですが、灰華が使えなくなったときに使う道具だとしたら、灰華より確実なものだと思います」
「確実、というのは」
セレナは、言葉を選ばなかった。
「戻せないものです」
三日目の朝、雨が降った。
南の雨は、北より暖かい。屋根を叩く音が柔らかかった。
セレナは薪の隙間で、目を閉じていた。眠ってはいない。
「セレナ」
ラウルの声がした。
「起きています」
「一つ、言い忘れていた」
彼女は目を開けた。
「祭の香だ」ラウルは言った。「あれを、俺は先頭の船で嗅いだ」
「はい」
「艫の香が流れてきたとき、俺は――」
彼は言葉を切った。
雨の音が、少し強くなった。
「河の匂いがした」ラウルは言った。「六年ぶりに、この街の匂いを嗅いだ」
セレナは薪の向こうを見た。姿は見えなかった。
「あんたが作った香が、俺に街を返した」
「――ラウル様」
「言うのは鼻が要らなくなってからだと言ったな」彼は言った。「訂正する」
雨が屋根を叩いていた。
「もう要らなくなった」




