第三十話 三本目の理由
セレナは、しばらく窯の火を見ていた。
「順番を、もう一度確認させてください」彼女は言った。「ヴィオラ様は、十一番を土台にすると決めた。九本、比率を試した。ここまでは、記憶がおありですね」
「はい。九本目までは覚えています」
「九本目を作ったのは、いつ頃でしょう」
「十の月の、半ばだったと思います」
セレナは指を折った。
「樽が入ったのは、十一の月六日です」
「――樽?」
「灰華の荷です」セレナは言った。「南から組合に入って、焙られて、別棟に渡ります。六年前は年に三度。九の月十一日、十の月二日、十一の月六日」
ヴィオラの顔が変わった。
「では、わたくしが灰華を足したのは」
「十一の月六日より後です」セレナは言った。「匣の中の灰華は、それより前から瓶に入っていました。ですが、あなたが最後の三本を作ったのは、十一の月に入ってからのはずです」
「なぜ、そう言えるのですか」
「十四本の試作は、十の月の札です」セレナは言った。「ですが最後の三本だけ、札の書き方が違いました」
娘が身を乗り出した。
「違う、というのは」
「他の十一本は、日付が入っています」セレナは言った。「最後の三本だけ、日付がありません」
窯の中で、炭が鳴った。
「――急いでいたのですね」ヴィオラが言った。
「そう見えました」
セレナは、記憶の中の札を思い出した。
三の一、七の二、十一の五。番号と比率だけ。日付がない。字が乱れている。
「ヴィオラ様。急いで、灰華を足す理由を考えてみましょう」彼女は言った。「ヘルマン様に焙るなと言われた香料です。あなたはそれを覚えていた。それでも足した」
「はい」
「なら、足す必要が生じたということです」
「何のために」
セレナは、答えを持っていなかった。
だが、考えの筋道はあった。
「――逆から考えます」彼女は言った。「灰華を足すと、香はどうなりますか」
「焙らなければ、何も起きません」
「そうです」セレナは言った。「未焙の灰華は、匂いも作用もありません。足しても、香の性質は変わりません」
ヴィオラが眉を寄せた。
「では、足す意味がありません」
「香としては、意味がありません」
セレナは顔を上げた。
「ですが、別の意味があります」
ラウルが口を開いた。
「――なんだ」
「証拠です」
小屋の中が、静かになった。
「灰華を入れた香を作れば、その香の中に灰華が残ります」セレナは言った。「祭で焚かれる香に、目録外の香料が入っている。それは、誰かが灰華をこの街に流していることの証明になります」
「――未焙のままなら、無害だ」ラウルが言った。
「無害です」セレナは頷いた。「無害で、しかも証拠になります」
ヴィオラが息を呑んだ。
「わたくしは、告発しようとしたのですか」
「そう考えると、辻褄が合います」セレナは言った。「あなたはヘルマン様に、これは焙るなと言われた。焙ってはいけない香料が、なぜ母の匣にあるのか。なぜ叔父さまがそれを渡したのか。あなたは、それを疑ったのではないでしょうか」
娘は両手を膝の上で握りしめた。
「――十一の月に、何かがあったのですね」
「あったはずです」セレナは言った。「十の月の半ばまで、あなたは普通に香を作っていました。それが十一の月に入って、急に灰華を足しはじめた。間に何かがあります」
ヴィオラは、窯の火を見つめた。
やがて、彼女は首を振った。
「思い出せません」
「無理をなさらないでください」
「いいえ」娘は言った。「思い出さなければなりません」
彼女は立ち上がった。
「セレナさん。十一番を、焙ってくださいませんか」
セレナは息を止めた。
「――ヴィオラ様」
「あれは、記憶に作用します」ヴィオラは言った。「わたくしの記憶を奪ったのが十一番なら、もう一度嗅げば、何か戻るかもしれません」
「駄目だ」ラウルが立ち上がった。「絶対に駄目だ」
「兄さま」
「六年前、それでお前は三日眠った」彼は言った。「もう一度やれば、次は目を覚まさないかもしれん」
「覚まさなくても構いません」
「構う!」
ラウルの声が、窯の壁に反響した。
妹は、兄をまっすぐに見ていた。
「兄さま。わたくしは六年、何もできませんでした」ヴィオラは言った。「屋敷から出られず、香に触れられず、思い出さないことだけを仕事にしてきました」
「それでいい」
「よくありません」
娘の声は、静かだった。
「兄さまが六年、飯を食べさせられていたことを、わたくしは今日知りました」彼女は言った。「食欲の出る粉を混ぜられて、生かされていた。誰にも気づかれずに」
「――ああ」
「その六年を、わたくしは何もせずに過ごしました」
「お前のせいじゃない」
「わかっています」ヴィオラは言った。「わたくしのせいではありません。ですが、わたくしの六年です」
小屋が静かになった。
セレナは、二人を見ていた。
止めるべきだ、と頭のどこかが言っていた。
だが同時に、この娘の言っていることは、自分が三月前に王都の門を出たときに考えたことと、同じだった。
――誰かのせいで失ったものでも、取り戻すのは自分の仕事だ。
「ヴィオラ様」セレナは言った。「条件を三つ、出します」
ラウルが振り返った。
「セレナ」
「聞いてください」彼女は言った。「私は、止めません。ですが、無条件では焙きません」
娘が頷いた。
「伺います」
「一つ。今日はやりません」セレナは言った。「十一番は、私の手元にあります。ここにはありません」
「――北ですね」
「はい。アルシェの工房にあります」
「では」
「二つ」セレナは続けた。「焙るときは、私が量と条件を決めます。六年前、あなたは九本試しました。九回嗅いだのです。今度は一回、ごく微量です」
「それで、思い出せるでしょうか」
「わかりません」セレナは言った。「ですが、思い出せなくても、あなたは無事です。そちらを優先します」
ヴィオラは、少し笑った。
「――厳しい方ですね」
「三つ目です」セレナは言った。「あなたが、北へ来てください」
小屋の中が、止まった。
「――北へ」
「はい」セレナは言った。「南でこれをやるのは、危険すぎます。屋敷に戻れば、あなたは監視の中です。何かあったとき、誰も助けられません」
「わたくしは、屋敷を出られません」
「出ていただきます」
「叔父さまが」
「叔父さまは北におられます」セレナは言った。「そして、こちらの手はもうすぐ動きます。動いたとき、あなたが南に一人でいるのが、一番危ない」
ヴィオラは、しばらく黙っていた。
それから、兄を見た。
「兄さま」
「――俺は」ラウルは言った。「六年前、お前を南へ行かせた」
「はい」
「守るためだと思っていた」
「わたくしも、そう思っていました」
彼は妹の前に立った。
「連れて帰る」
ヴィオラの目が潤んだ。
だが、彼女は泣かなかった。代わりに、深く息を吸った。
「では、支度をします」
「いつ出られる」
「三日後です」娘は言った。「月の終わりに、屋敷は棚卸しをします。人が出払います」
「三日か」
「はい。それより早いと、必ず気づかれます」
セレナは頷いた。
「では、私たちは三日、この町にいます」
「宿は」
「港の宿を取っています」
ヴィオラは首を振った。
「移ってください」彼女は言った。「港の宿は、二軒とも屋敷が把握しています」
「では、どこへ」
娘は、窯の壁を指した。
「ここに、いてください」
小屋を出たのは、二刻を少し過ぎた頃だった。
ヴィオラは石段を降りていった。振り返らずに。
セレナは、その背中を見送った。
隣で、ラウルが息を吐いた。
「――止めなかったな」
「はい」
「あんたなら止めると思った」
「止めるべきでした」セレナは言った。「ですが、止められませんでした」
彼女は月を見た。南の月は、北より大きく見えた。
「あの方は、六年分を取り戻そうとしています」セレナは言った。「私も、三月前に同じことを考えました。止める資格がありません」
ラウルは、しばらく黙っていた。
「セレナ」
「はい」
「一つ、言っておく」
彼女は振り返った。
ラウルは石段の上に立っていた。月が背後にあって、顔が影になっている。
「あんたが六年前の妹と同じことをするなら、俺は止める」彼は言った。「妹は止められなかった。あんたは止める」
「――なぜ」
「言うのは、あんたの鼻が要らなくなってからだと言った」ラウルは言った。「まだ要る。だから言わん」
彼は石段を降りはじめた。
セレナは、その場に立っていた。
風が山を降りてくる。乳香の匂いがした。
――要らなくなってから。
彼女は、自分がその日を待っているのか、恐れているのか、まだわからなかった。




