第二十九話 窯の前で
窯の火が、赤く落ちていた。
ラウルは長いこと動かなかった。膝の上で拳を握って、それをじっと見ていた。
「――六年」やがて彼は言った。「六年、それを一人で抱えていたのか」
「はい」
「なぜ言わなかった」
「言えば、兄さまが死ぬからです」ヴィオラは言った。「叔父さまは、そうおっしゃいました。誰にも言わなければ、兄は無事だと」
「あれは脅しだ」
「脅しです」娘は頷いた。「ですが、脅しは本当のことを言っているときもあります」
セレナは黙って聞いていた。
この兄妹は、どちらも同じ構造の中にいた。
ラウルは、調べるのをやめたから生きていた。
ヴィオラは、思い出さなかったから兄を生かしていた。
どちらも、正しく判断していた。正しく判断した結果、六年が空白になった。
「ヴィオラ様」セレナは言った。「一つ、伺ってもよろしいですか」
娘が顔を向けた。
「はい」
「なぜ、今日は話す気になられたのですか」
ヴィオラは、窯の火を見た。
「兄さまの鼻が戻ったからです」
「それを、どうやってお知りになりましたか」
娘の指が、膝の上で動いた。
「――三月前から、屋敷の様子が変わりました」
セレナは身を乗り出した。
「三月前」
「はい」ヴィオラは言った。「叔父さまからの文が、増えました。それまでは月に一度でしたのに、三月前から週に一度になりました」
「文には何と」
「いつも同じです。体を大事にしなさい。香に触れてはいけません。思い出そうとしてはいけません」娘は言った。「六年間、同じことしか書いてありません」
「では、なぜ増えたと」
「わかりません。ですが、増えた理由があるはずです」ヴィオラは言った。「そして三月前は、兄さまが新しい目利きを雇われた頃でした」
セレナは息を吸った。
自分だ。
三月前、自分がこの兄の隣に立ったことで、南への文が三倍になった。
「それだけで、鼻の回復まではわかりません」
「もう一つあります」娘は言った。「先月、屋敷から人が減りました」
「減った」
「わたくしに付いていた者が、三人から一人になりました」ヴィオラは言った。「叔父さまの指示です。監視を緩めたのではありません。人を、別のことに回したのです」
セレナは、頭の中で日付を並べた。
先月。台所の供給を止めた頃。ヘルマンに写しを頼んだ頃。
「――人を、北へ回した」
「そう思いました」ヴィオラは言った。「北で何かが起きている。叔父さまが人手を必要とすることが。それが何かを考えたとき、思い当たるのは一つでした」
娘は兄を見た。
「兄さまの鼻が戻りかけている」
ラウルが顔を上げた。
「――それだけで、そこまで」
「六年、それだけを考えて生きてきました」ヴィオラは言った。「屋敷から出られず、香に触れられず、手紙も読まれます。できることは、考えることだけでした」
セレナは、この娘を見直した。
十七で香を任され、六年間監視の下に置かれた女が、届く情報の量だけで北の状況を組み立てている。
「三月遅かった、とおっしゃいましたね」セレナは言った。「あれは、どういう意味ですか」
ヴィオラは、しばらく黙った。
「三月前に、母の匣が屋敷から運び出されました」
窯の中で、炭が崩れた。
セレナは動きを止めた。
「――運び出された」
「はい」
「ですが、匣は商会にあります」ラウルが言った。「俺が六年前に仕舞った。先月、俺が自分で出した」
ヴィオラの目が見開かれた。
「――兄さま、匣をお持ちなのですか」
「持っている。二十四本、全部ある」
娘は口元に手を当てた。
しばらく、言葉が出ない様子だった。
「では、あれは」彼女は言った。「三月前に運ばれたのは、別の匣です」
セレナは膝を掴んだ。
「二つあるのですか」
「母の匣は、二つありました」ヴィオラは言った。「母は南の生まれです。嫁ぐとき、二つ持って行かれました。一つは調香のための匣。もう一つは――」
娘は言葉を切った。
「もう一つは、なんですか」
「わかりません」ヴィオラは首を振った。「わたくしが見たのは一度だけです。六年前、叔父さまがわたくしに匣をくださったとき、隣にもう一つ、同じ形の匣がありました」
ラウルが立ち上がった。
「――叔父が渡したのか」
「はい」
「六年前、匣を妹に渡したのは、叔父か」
「そうです」ヴィオラは言った。「祭の香を作りなさい、母上の匣を使いなさい、と」
彼は窯の前を歩いた。二歩、三歩。それから止まった。
「番号の意味は」
「教えていただけませんでした」娘は言った。「これは母上のものだから、お前が自分で確かめなさい、と」
セレナは、目を閉じた。
十七の娘に、二十四本の瓶を渡す。四本は目録外で、うち三つは薬だ。番号しか書いていない。意味は教えない。自分で確かめろと言う。
――確かめるとは、嗅ぐことだ。
「ヴィオラ様」セレナは言った。「あなたは、九本試されました」
娘が顔を上げた。
「――十一番ですね」
「ご存じでしたか」
「試作の札を、覚えています」ヴィオラは言った。「記憶があるのは十の月の初めまでです。そこまでは、覚えています」
「十一番を、なぜ主役にしようとされたのですか」
娘は、窯の火を見た。
「あれだけ、匂いがしなかったからです」
セレナの背筋が伸びた。
「匂いがしないものを、なぜ」
「祭の香だからです」ヴィオラは言った。「河の上で焚く香です。風で流れます。強い香料を使えば、岸まで届く前に散ってしまう」
娘は指を組んだ。
「わたくしは、匂いのしないものを土台にしようと考えました」彼女は言った。「匂いのしないものの上に、軽いものを重ねれば、軽いものだけが遠くまで届く。そう考えたのです」
セレナは、しばらく声が出なかった。
――同じだ。
自分が『まだ暗い』で使った考え方と、同じだった。土台を重くするのではなく、土台の匂いを消す。その上に細い線を一本走らせる。
十七の娘が、六年前に、独力でそこに辿り着いていた。
「ヴィオラ様」
「はい」
「その考え方は、正しいです」セレナは言った。「今年の祭の香を、私はそう作りました」
娘の目が、大きくなった。
「――今年の」
「はい」
「祭の香を、あなたが」
「作りました。十一の月十五日に焚きました」
ヴィオラは、両手で口を覆った。
目に涙が浮かんでいた。
「――どうでしたか」
「街の子どもが、朝の匂いだと言いました」セレナは言った。「まだ暗いのに、朝だと」
娘は泣いた。
声を殺して、肩を震わせて泣いた。
ラウルが妹の傍に膝をついた。手を伸ばしかけて、それから止めた。触れ方がわからないのだ、とセレナは思った。六年ぶりだった。
やがて、彼は妹の頭に手を置いた。
ヴィオラは、そのまま兄の肩に額を預けた。
しばらくして、娘は顔を上げた。
「取り乱しました」
「いい」ラウルが言った。
「セレナさん」ヴィオラは目を拭った。「一つ、お願いがあります」
「はい」
「わたくしの試作を、見ていただけましたか」
「十四本、全部拝見しました」
「最後の三本に、灰華が入っていたはずです」
セレナは頷いた。
「入っていました」
「あれが、わからないのです」娘は言った。「わたくしは、ヘルマン様に焙るなと言われました。生のまま使えと。それは覚えています」
「はい」
「なぜ、最後の三本に灰華を足したのか」ヴィオラは言った。「土台は十一番のはずでした。灰華は要りません」
セレナは、その問いを自分も持っていた。
九本、十一番を試した。それから灰華を三本足した。順番として、不自然だった。
「記憶がないので、わかりません」娘は言った。「ですが、理由があったはずです。わたくしは、意味のないことをする人間ではありません」
彼女は兄を見て、それからセレナを見た。
「教えてください。わたくしは、何をしようとしていたのでしょうか」




