↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奪われた香りは、私のものです ~王家御用達の調香師見習いは、追われた辺境で自分の工房を持つことにした~  作者: やまご


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/56

第二十九話 窯の前で

 窯の火が、赤く落ちていた。

 ラウルは長いこと動かなかった。膝の上で拳を握って、それをじっと見ていた。

「――六年」やがて彼は言った。「六年、それを一人で抱えていたのか」

「はい」

「なぜ言わなかった」

「言えば、兄さまが死ぬからです」ヴィオラは言った。「叔父さまは、そうおっしゃいました。誰にも言わなければ、兄は無事だと」

「あれは脅しだ」

「脅しです」娘は頷いた。「ですが、脅しは本当のことを言っているときもあります」

 セレナは黙って聞いていた。

 この兄妹は、どちらも同じ構造の中にいた。

 ラウルは、調べるのをやめたから生きていた。

 ヴィオラは、思い出さなかったから兄を生かしていた。

 どちらも、正しく判断していた。正しく判断した結果、六年が空白になった。

「ヴィオラ様」セレナは言った。「一つ、伺ってもよろしいですか」

 娘が顔を向けた。

「はい」

「なぜ、今日は話す気になられたのですか」

 ヴィオラは、窯の火を見た。

「兄さまの鼻が戻ったからです」

「それを、どうやってお知りになりましたか」

 娘の指が、膝の上で動いた。

「――三月前から、屋敷の様子が変わりました」

 セレナは身を乗り出した。

「三月前」

「はい」ヴィオラは言った。「叔父さまからの文が、増えました。それまでは月に一度でしたのに、三月前から週に一度になりました」

「文には何と」

「いつも同じです。体を大事にしなさい。香に触れてはいけません。思い出そうとしてはいけません」娘は言った。「六年間、同じことしか書いてありません」

「では、なぜ増えたと」

「わかりません。ですが、増えた理由があるはずです」ヴィオラは言った。「そして三月前は、兄さまが新しい目利きを雇われた頃でした」

 セレナは息を吸った。

 自分だ。

 三月前、自分がこの兄の隣に立ったことで、南への文が三倍になった。

「それだけで、鼻の回復まではわかりません」

「もう一つあります」娘は言った。「先月、屋敷から人が減りました」

「減った」

「わたくしに付いていた者が、三人から一人になりました」ヴィオラは言った。「叔父さまの指示です。監視を緩めたのではありません。人を、別のことに回したのです」

 セレナは、頭の中で日付を並べた。

 先月。台所の供給を止めた頃。ヘルマンに写しを頼んだ頃。

「――人を、北へ回した」

「そう思いました」ヴィオラは言った。「北で何かが起きている。叔父さまが人手を必要とすることが。それが何かを考えたとき、思い当たるのは一つでした」

 娘は兄を見た。

「兄さまの鼻が戻りかけている」

 ラウルが顔を上げた。

「――それだけで、そこまで」

「六年、それだけを考えて生きてきました」ヴィオラは言った。「屋敷から出られず、香に触れられず、手紙も読まれます。できることは、考えることだけでした」

 セレナは、この娘を見直した。

 十七で香を任され、六年間監視の下に置かれた女が、届く情報の量だけで北の状況を組み立てている。

「三月遅かった、とおっしゃいましたね」セレナは言った。「あれは、どういう意味ですか」

 ヴィオラは、しばらく黙った。

「三月前に、母の匣が屋敷から運び出されました」


 窯の中で、炭が崩れた。

 セレナは動きを止めた。

「――運び出された」

「はい」

「ですが、匣は商会にあります」ラウルが言った。「俺が六年前に仕舞った。先月、俺が自分で出した」

 ヴィオラの目が見開かれた。

「――兄さま、匣をお持ちなのですか」

「持っている。二十四本、全部ある」

 娘は口元に手を当てた。

 しばらく、言葉が出ない様子だった。

「では、あれは」彼女は言った。「三月前に運ばれたのは、別の匣です」

 セレナは膝を掴んだ。

「二つあるのですか」

「母の匣は、二つありました」ヴィオラは言った。「母は南の生まれです。嫁ぐとき、二つ持って行かれました。一つは調香のための匣。もう一つは――」

 娘は言葉を切った。

「もう一つは、なんですか」

「わかりません」ヴィオラは首を振った。「わたくしが見たのは一度だけです。六年前、叔父さまがわたくしに匣をくださったとき、隣にもう一つ、同じ形の匣がありました」

 ラウルが立ち上がった。

「――叔父が渡したのか」

「はい」

「六年前、匣を妹に渡したのは、叔父か」

「そうです」ヴィオラは言った。「祭の香を作りなさい、母上の匣を使いなさい、と」

 彼は窯の前を歩いた。二歩、三歩。それから止まった。

「番号の意味は」

「教えていただけませんでした」娘は言った。「これは母上のものだから、お前が自分で確かめなさい、と」

 セレナは、目を閉じた。

 十七の娘に、二十四本の瓶を渡す。四本は目録外で、うち三つは薬だ。番号しか書いていない。意味は教えない。自分で確かめろと言う。

 ――確かめるとは、嗅ぐことだ。

「ヴィオラ様」セレナは言った。「あなたは、九本試されました」

 娘が顔を上げた。

「――十一番ですね」

「ご存じでしたか」

「試作の札を、覚えています」ヴィオラは言った。「記憶があるのは十の月の初めまでです。そこまでは、覚えています」

「十一番を、なぜ主役にしようとされたのですか」

 娘は、窯の火を見た。

「あれだけ、匂いがしなかったからです」

 セレナの背筋が伸びた。

「匂いがしないものを、なぜ」

「祭の香だからです」ヴィオラは言った。「河の上で焚く香です。風で流れます。強い香料を使えば、岸まで届く前に散ってしまう」

 娘は指を組んだ。

「わたくしは、匂いのしないものを土台にしようと考えました」彼女は言った。「匂いのしないものの上に、軽いものを重ねれば、軽いものだけが遠くまで届く。そう考えたのです」

 セレナは、しばらく声が出なかった。

 ――同じだ。

 自分が『まだ暗い』で使った考え方と、同じだった。土台を重くするのではなく、土台の匂いを消す。その上に細い線を一本走らせる。

 十七の娘が、六年前に、独力でそこに辿り着いていた。

「ヴィオラ様」

「はい」

「その考え方は、正しいです」セレナは言った。「今年の祭の香を、私はそう作りました」

 娘の目が、大きくなった。

「――今年の」

「はい」

「祭の香を、あなたが」

「作りました。十一の月十五日に焚きました」

 ヴィオラは、両手で口を覆った。

 目に涙が浮かんでいた。

「――どうでしたか」

「街の子どもが、朝の匂いだと言いました」セレナは言った。「まだ暗いのに、朝だと」

 娘は泣いた。

 声を殺して、肩を震わせて泣いた。

 ラウルが妹の傍に膝をついた。手を伸ばしかけて、それから止めた。触れ方がわからないのだ、とセレナは思った。六年ぶりだった。

 やがて、彼は妹の頭に手を置いた。

 ヴィオラは、そのまま兄の肩に額を預けた。


 しばらくして、娘は顔を上げた。

「取り乱しました」

「いい」ラウルが言った。

「セレナさん」ヴィオラは目を拭った。「一つ、お願いがあります」

「はい」

「わたくしの試作を、見ていただけましたか」

「十四本、全部拝見しました」

「最後の三本に、灰華が入っていたはずです」

 セレナは頷いた。

「入っていました」

「あれが、わからないのです」娘は言った。「わたくしは、ヘルマン様に焙るなと言われました。生のまま使えと。それは覚えています」

「はい」

「なぜ、最後の三本に灰華を足したのか」ヴィオラは言った。「土台は十一番のはずでした。灰華は要りません」

 セレナは、その問いを自分も持っていた。

 九本、十一番を試した。それから灰華を三本足した。順番として、不自然だった。

「記憶がないので、わかりません」娘は言った。「ですが、理由があったはずです。わたくしは、意味のないことをする人間ではありません」

 彼女は兄を見て、それからセレナを見た。

「教えてください。わたくしは、何をしようとしていたのでしょうか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。