第二十八話 来てはいけません
桟橋の板は、白かった。
日に灼けて乾ききっている。北の河港の黒い板とは、まるで違った。
ヴィオラは十間先に立っていた。二十三になっているはずだった。背は高くない。頬が痩せている。だが目だけが、兄と同じ形をしていた。
「なぜだ」ラウルが言った。
「ここは、見られています」妹は言った。声は落ち着いていた。走ってきた息の乱れが、もう収まっている。「わたくしが港に出るときは、必ず誰かが付きます」
セレナは、その後ろを見た。
男が一人、十歩ほど離れて立っていた。中年の使用人らしい服装で、こちらを見ている。表情がない。
「あの方ですか」
「そうです」ヴィオラは振り返らなかった。「あの者は悪い人ではありません。ただ、報告する義務があります」
ラウルが船から降りようとした。
「兄さま」
「なんだ」
「わたくしを見て、驚いた顔をしてください」
ラウルの動きが止まった。
「――なに」
「兄さまは、わたくしがここにいることを知らずに来た。そういう形にしてください」ヴィオラは言った。「わたくしは屋敷にいるはずの時刻です。抜け出してきました。兄さまが約束して会いに来たのではないと、あの者に見せる必要があります」
セレナは、すぐに理解した。
「ラウル様。船から降りずに、大声で名前を呼んでください」
ラウルが彼女を見た。
「――何を言っている」
「驚いた人は、大きな声を出します」セレナは言った。「静かに降りたら、示し合わせて来たように見えます」
彼はしばらく二人を見比べて、それから船縁に手をついた。
「ヴィオラ!」
声が港に響いた。
桟橋の端の男が、はっきりと反応した。姿勢が変わった。
「なぜここにいる、屋敷にいるはずだろう!」
ヴィオラが目を伏せた。演技だとわかる仕草だったが、遠目には気づかれない。
「――申し訳ございません」
ラウルは船を降り、大股で歩いていった。
セレナは船に残った。
この場面に部外者が近づくのは、間違いだった。
兄妹は、桟橋の中ほどで向かい合った。
声は届かない。
ラウルは腕を組んで立っている。ヴィオラは俯いて、時折頷いていた。傍目には、抜け出した妹を兄が叱っている構図だった。
半刻ほどして、ラウルが戻ってきた。
ヴィオラは使用人と一緒に、坂を登っていった。一度も振り返らなかった。
「話せたぞ」ラウルは船縁に手をかけた。顔が青かった。
「どこまで」
「短くだ。あいつが早口で言った」
彼は船倉の方を見て、それから声を落とした。
「屋敷では話せない。夜、山の畑の小屋に来い、と」
「場所は」
「三の段の東端。焼き窯のある小屋だそうだ」
セレナは頷いた。
「行きます」
「まだある」ラウルは言った。「あいつは、俺の鼻が戻っていることを知っていた」
セレナの手が止まった。
「――なぜ」
「わからん。だが、はっきり言った。兄さまの鼻は戻りましたね、と」
「あなたは何と」
「戻ったと答えた」
「他には」
ラウルは船縁を掴んだ。指が白くなっていた。
「――あいつは、こう言った」
彼は言葉を切った。
「三月遅かった、と」
港の宿は、二軒しかなかった。
ラウルは商会の名を出さず、荷役の格好のまま安い方に部屋を取った。二階の角部屋で、窓から山が見えた。
昼の間、二人は動かなかった。
「三月遅かった、というのは」セレナは窓辺で言った。
「わからん」
「三月前は、私が王都を出た頃です」
「偶然だろう」
「そうでしょうか」
セレナは山を見た。
段々の畑が、中腹まで刻まれている。三の段というのは、下から三番目だろうか。
「ラウル様。妹さんは六年、監視されていました」彼女は言った。「その方が、あなたの鼻の回復を知っている」
「手紙は俺が出した」
「回復したとは書いていません」
ラウルの顔が上がった。
「――書いていないな」
「あなたが書いたのは、調べるのをやめた、鼻のことは諦めた、という内容です」セレナは言った。「私がそう書けと申し上げました」
「では、なぜ知っている」
「別の経路で伝わっています」
彼女は窓から離れた。
「そして、その経路は、あちらの側です」
夜になった。
山道は、月明かりで歩けた。石段が組まれていて、段々畑の間を縫っている。
匂いが変わっていく。
一の段は、草の匂いが強かった。背の低い植物が植わっている。
二の段で、樹脂の匂いがした。低木が並んでいる。乳香の木だ、とセレナは思った。王都では見たことがなかったが、匂いでわかる。
三の段。
風が変わった。
「――ラウル様」
「なんだ」
「ここ、匂いがしません」
彼が足を止めた。
「畑だろう」
「畑です。ですが、匂いがない」セレナは屈んで、土に触れた。「植わっているのに、匂いが立っていません」
月明かりで、畝が見えた。低い草が、規則正しく並んでいる。
彼女は葉を一枚、指で潰した。
匂いを嗅ぐ。
――土。少し青い。
二十番だった。
「これは」
「知っているのか」
「二十番です」セレナは言った。「食欲を出す粉の、原料です」
ラウルが屈んだ。
「畑で作っているのか」
「はい」彼女は立ち上がった。「一面です。三の段は、全部これです」
二人は畝の間を歩いた。
東の端まで、ずっと同じ草だった。
その先に、小屋があった。
石積みの低い建物で、煙突が突き出している。焼き窯だ。窓から灯が漏れていた。
戸を叩くと、すぐに開いた。
ヴィオラが立っていた。
「入ってください。早く」
中は、暑かった。
窯に火が入っている。壁際に棚があり、素焼きの皿が並んでいた。
セレナは戸口で一度、止まった。
匂いを確かめる。
――炭。土。乾いた葉。
灰華はない。
「危険はありません」ヴィオラが言った。「この窯では、いま何も焙いていません」
「わかります」セレナは言った。「失礼しました」
娘が、はじめて彼女を見た。
「あなたが、セレナさん」
「はい」
「兄の鼻を戻した方」
「戻りかけているだけです」
ヴィオラは、少し笑った。
笑うと、頬の痩せが目立った。
「座ってください」彼女は言った。「二刻しかありません。それを過ぎると、屋敷で気づかれます」
三人は、窯の前の板に座った。
ヴィオラは膝の上で手を組んだ。
「兄さま。まず、謝らせてください」
「謝ることはない」
「あります」娘は言った。「わたくしは六年間、嘘をつきました」
ラウルの顔が強張った。
「――記憶か」
「記憶は、本当にありません」ヴィオラは言った。「十の月から十一の月までの一月ほど、まるごとありません。何を作ったのかも、兄さまに何を渡したのかも」
「では、何が嘘だ」
娘は顔を上げた。
「思い出そうとしていない、ということです」
窯の火が、音を立てた。
「わたくしは、六年間、思い出さないようにしてきました」ヴィオラは言った。「思い出せば、何かを言わなければならなくなる。言えば、誰かが死ぬ。だから、思い出さないようにした」
「誰が死ぬ」
「兄さまです」
ラウルが動きを止めた。
ヴィオラは、まっすぐに兄を見ていた。
「六年前、わたくしが目を覚ましたとき、枕元に叔父さまが座っておられました」彼女は言った。「そして、こうおっしゃいました」
娘は、一度息を吸った。
「――お前が兄の鼻を壊した。だが、それは事故だ。誰にも言わなければ、兄は無事だ」




