第二十七話 四日の船
河口で積み替えた船は、外洋船だった。
喫水が深く、帆が三枚。荷倉が広い。客は船倉の隅に寝床を割り当てられた。板の上に麻布を敷いただけの場所だ。
一日目、セレナは船酔いをした。
「情けない話です」
「三月前に王都から歩いてきた人間の言うことか」ラウルは水の入った革袋を渡した。「陸と海は別物だ」
「あなたは平気なのですね」
「六年ぶりに匂いが戻ったばかりだ」彼は言った。「船倉の匂いがきつくて、逆に慣れた」
セレナは板に背を預けた。
船倉は、油と塩と、湿った麻の匂いがした。それに人の匂いが混ざる。七人分。
「――ラウル様」
「なんだ」
「南の領地は、どういう場所ですか」
「行ったことは三度ある」彼は言った。「母の実家だ。海に面した小さな町で、その裏に山がある。香料の畑がある」
「畑」
「栽培しているものもあれば、山で採るものもある」ラウルは言った。「代々そうやってきた家だ」
セレナは目を閉じた。
「灰華も、そこで採れるのでしょうか」
「――わからん」
「訊いても、答えていただけないでしょうね」
「たぶんな」
二日目、セレナは船倉から甲板に出られるようになった。
海は灰色だった。
北の空は曇っていたが、南は晴れている。風が変わりはじめていた。
「暖かくなりますね」
「南だからな」ラウルが言った。「祭が終わると、アルシェは冬だ。だが向こうは冬がない」
セレナは手すりに寄りかかった。
風の匂いが違う。塩は同じだが、湿り気の質が違った。北の風は乾いていて、南の風は肌に貼りつく。
「――植物が育ちますね」
「なんでわかる」
「風が湿っています」彼女は言った。「湿った風の土地は、香料が育ちます。乾いた土地では、樹脂しか採れません」
ラウルが手すりに肘を置いた。
「あんた、どこでそれを覚えた」
「王都の工房です」
「調香師は畑まで知るものなのか」
「知りません」セレナは言った。「普通は組合が仕入れて、工房は買うだけです。畑を知る必要はありません」
「なら、なぜ知っている」
彼女は少し黙った。
「――師匠が、行かせなかったからです」
「なに」
「仕入れは私の仕事でした」セレナは言った。「三年、王都近郊を回りました。ですが、遠方の産地には一度も行かせてもらえなかった。行きたいと言うたびに、お前は工房にいろと言われました」
「なぜだ」
「当時は、私を信用していないのだと思っていました」彼女は言った。「今は、違う理由だったと思います」
ラウルが顔を上げた。
「産地を知られたくなかったんです」セレナは言った。「工房がどこから何を買っているか。それを知る人間を、外に出したくなかった」
「――そういうことか」
「ですから、私は行かせてもらえない代わりに、来る荷を全部嗅ぎました」彼女は言った。「産地ごとに癖があります。同じ乳香でも、育った土地で樹脂の粘りが違う。それを三年やれば、嗅いだだけで土地の湿り気がわかるようになります」
「独学か」
「意地です」
ラウルが笑った。
短く、だがはっきりと。
三日目の夜、船倉で二人は並んで座っていた。
他の客は眠っている。灯は消してある。板の隙間から、月が細く入っていた。
「セレナ」
「はい」
「王都の話を、ちゃんと聞いていない」
彼女は膝を抱えた。
「聞きたいですか」
「聞きたい」
セレナは、しばらく黙っていた。
三月、誰にも話していなかった。ラウルには「名前を奪われた」としか言っていない。
「王家に献上する香を作りました」彼女は言った。「三年かかりました」
「一人でか」
「一人です」
「師匠は」
「見ていました」セレナは言った。「見て、無駄が多いと言い続けました。私のやり方は、あの人の型から外れていたので」
「それでも作らせた」
「はい」
彼女は自分の指を見た。暗くて見えなかったが、藍の染みはもう薄い。
「発表の日、名前を呼ばれたのは義姉でした」
ラウルは何も言わなかった。
「あの人は、調香室に四度しか入ったことがありません」セレナは言った。「一度は花瓶を取りに。一度は父の使いで。一度は蒸留器の音がうるさいと言いに。最後は先月、完成した瓶を見て、地味な色ねと言って出ていきました」
「――四度」
「四度です」
船が揺れた。
「私は抗議しました」彼女は言った。「その場で。百人の前で」
「言ったのか」
「言いました。それは私が作りましたと」
「どうなった」
「師匠が、下がりなさいと言いました」セレナは言った。「それだけです。誰も何も言いませんでした。義姉が記録帳を出して、それで終わりました」
「記録帳は」
「偽物です」彼女は言った。「私の字を似せてありました。ですが、線が均一すぎた。疲れた夜の字と、朝の字が同じ濃さで並んでいた。人間はそんな書き方をしません」
「言えばよかっただろう」
「言えば筆跡の鑑定です」セレナは言った。「鑑定を頼むのは組合で、組合の理事は師匠で、証人になるのは工房の職人たちです。彼らの給金は師匠が払っています」
ラウルが息を吐いた。
「勝てないな」
「勝てません」
「それで黙ったのか」
「黙りました」セレナは言った。「三日後に除名されて、その日のうちに登録が消えました。理由の欄には素行とだけ」
「――ヘルマンが嫌いだと言った書き方だな」
「そうですね」
二人はしばらく黙っていた。
「セレナ」
「はい」
「悔しくないのか」
彼女は膝を抱え直した。
「悔しいです」
「そうは見えん」
「見せていないだけです」セレナは言った。「三月前、門を出るとき、捨て台詞を吐きませんでした。吐けば、それが最後の言葉になるからです」
「最後にしたくなかったのか」
「はい」
彼女は月の光を見た。
「いつか、あの人たちに頭を下げさせます」セレナは言った。「登録を返しに来させます。そのとき初めて、私は口を開きます」
船が軋んだ。
ラウルが、低く笑った。
「――あんた、根に持つな」
「はい」
「いいことだ」
彼は板に背を預けた。
「俺は六年、根に持たなかった」彼は言った。「持てなかった。誰にどう持てばいいのかわからなかったからだ」
「今は」
「今は、はっきりしている」
ラウルは月を見上げた。
「叔父だ」
四日目の朝、陸が見えた。
白い町だった。石灰を塗った壁が、朝の光を跳ね返している。港は小さく、船が四艘しか着けられない。
その背後に、山があった。
濃い緑で、山肌に段々の畑が刻まれている。
セレナは手すりを握った。
風が変わった。
塩の匂いの下に、別のものがある。
樹脂。花。乾いた根。土。
――全部ある。
「ラウル様」
「なんだ」
「この町、匂いが濃いです」
彼は隣に立った。
「そうか」
「はい」セレナは言った。「王都でも、こんなに濃くありません」
彼女は目を細めた。
山の中腹に、白い建物が見えた。屋敷らしい。
「あれが母方の家だ」ラウルが言った。「ミレディア家という」
船が港に近づいていく。
桟橋に、人が立っていた。
二人。片方は男で、片方は――
セレナは目を凝らした。
女だった。若い。髪を結わずに垂らしている。
彼女は、こちらを見ていた。
ラウルが手すりを掴んだ。
「――ヴィオラだ」
船が桟橋に着くより先に、女は歩き出していた。
早足で、それから走った。
そして、桟橋の端で止まった。
距離は十間。
彼女は口を開いた。
「兄さま、来てはいけません」




