第二十六話 礼の日
翌朝、商会の前には列ができていた。
水神祭の香を出した家には、街の者が礼に来る。それが慣わしだった。荷役、女房、宿の主人、市場の女。手に持っているのは酒だったり、干した魚だったり、繕った上着だったりした。
ラウルは土間に立って、一人ずつ受け取っていた。
「よかったよ、旦那」荷役頭が言った。「船が来る前に匂いがしてな。おっ、来た、と思った」
「作ったのは俺じゃない」
「知ってるよ」男は顎で奥を示した。「そこの、匂い袋の姉ちゃんだろ」
セレナは土間の隅で、手を止めた。
列の何人かが、こちらを見た。
「あんた、あの袋の人か」女房の一人が言った。「うちの亭主が下げてるやつ」
「はい」
「昨日の、あれもあんたか」
「はい」
女は少し黙って、それから抱えていた包みを差し出した。
「うちで漬けたやつだけど」
セレナは受け取った。梅だった。
「――ありがとうございます」
「いや、こっちが」女は言いにくそうにした。「うちの子がね、船が通ったとき、朝の匂いがするって言ったんだよ」
セレナの手が止まった。
「朝、ですか」
「そう。まだ暗いのに、朝だって」
女は照れたように笑って、行ってしまった。
セレナは包みを抱えたまま、しばらく動けなかった。
リタが袖を引いた。
「セレナ、あたしと同じこと言ってる」
「――そうね」
「あたしのほうが先だった」
「そうよ。あなたが先だった」
列は昼過ぎまで続いた。
途中でマルタが台所から出てきて、セレナの隣に立った。太い腕で、礼の品を仕分けていく。
「あんた、大したもんだ」
「私は作っただけです」
「そうじゃない」マルタは魚を籠に移した。「この街の連中は、商会に礼になんぞ来ない。荷役は給金の話しかしないし、市場の連中は値の話しかしない。昨日今日で、何人来たと思う」
「数えていません」
「二百は来た」女は言った。「坊ちゃんが当主になって六年、こんなことは一度もない」
セレナは列を見た。
まだ人が並んでいる。
「マルタさん」
「なんだい」
「六年間、あの方は街の人とどう関わっておられましたか」
「関わってないよ」マルタは即答した。「荷検めと、帳簿と、それだけだ。宴も断る、寄り合いも出ない」
「なぜです」
「わからないからさ」
セレナは彼女を見た。
「宴に出りゃ、飯が出る。酒が出る。旨いも不味いもわからない人間が、それをどうやってやり過ごすと思う」マルタは言った。「一度、若い頃にやってね。出された料理を全部残して、主人が気を悪くした。それきりだ」
セレナは、また列を見た。
六年、この人はそうやって街から切れていた。切れていることが弱みになり、弱みが叔父の位置を強くした。
――鼻を壊すというのは、そういうことか。
商会を乗っ取る必要はない。当主を孤立させれば済む。
夕方、列が途切れた。
ラウルは土間の椅子に座り込んでいた。積み上がった礼の品を、彼はぼんやり見ていた。
「疲れましたか」
「――いや」
彼は魚の籠に手を伸ばし、一尾つまみ上げて、鼻に近づけた。
長く吸った。
「魚だ」
「はい」
「干した魚の匂いだ」ラウルは言った。「今朝から、ずっと嗅いでいた。誰かが来るたびに、何を持ってきたかが匂いでわかる」
セレナは黙っていた。
「酒を持ってきた男がいた」彼は続けた。「安酒だ。匂いでわかった。だが、あいつの手も匂った。魚を捌く仕事だ。指に染みついている」
「――ラウル様」
「六年ぶりに、人が匂った」
彼は籠を置いた。
その顔が、少し崩れていた。泣いているのではない。泣き方を知らない人間が、感情の置き場を探している顔だった。
セレナは、何も言わずに立っていた。
その夜、荷造りをした。
便船は翌朝の便で、河口まで下って積み替え、南の領地まで四日。
「三人で行く」ラウルが言った。「俺と、あんたと、それから――」
「リタは連れていきません」
彼が顔を上げた。
「置いていくのか」
「置いていきます」セレナは言った。「船で四日、往復で八日。留守の間、この子を誰かに預けなければなりません」
「マルタに頼めばいい」
「駄目です」
「なぜだ」
「私たちが留守にする八日間が、一番危険だからです」セレナは言った。「商会に置いておけば、人質になります」
ラウルの顔が硬くなった。
「――では、どこへ」
「ヘルマン様に預けます」
「組合にか」
「はい」セレナは言った。「あの方は今、二十年分の指示書を隠しています。あちらから見れば、ヘルマン様はまだ味方です。組合の理事長の家に子どもが一人増えても、誰も気にしません」
「あいつが裏切ったら」
「そのときは、私たちが負けます」彼女は言った。「ですが、あの方は既に写しを渡しました。裏切るなら、あのときが一番安全でした」
ラウルは長く息を吐いた。
「――わかった」
リタに話したのは、寝る前だった。
子どもは木箱の上に座って、靴を膝に抱えていた。
「あたし、行かないの」
「行かない」
「なんで」
「船が長いから」
「うそ」リタは即座に言った。「あぶないからでしょ」
セレナは、言葉に詰まった。
この子には、嘘が通らない。
「――そうよ」
「セレナは行くのに」
「私は仕事だから」
「あたしも仕事してる」
「してるわね」セレナは床に座った。「銅貨も稼いでる。靴も買った」
「じゃあなんで」
セレナは、少し考えた。
嘘は通らない。なら、本当のことを言うしかない。
「怖いからよ」
リタが顔を上げた。
「あなたが何かあったら、私が耐えられないから」セレナは言った。「私が弱いの。あなたが弱いんじゃない」
子どもは、しばらく彼女を見ていた。
それから、靴を抱え直した。
「……ヘルマンのとこ?」
「うん」
「あのひと、いやなにおいする」
「炭のね」
「うん」
「あれは、悪い匂いじゃないの」セレナは言った。「あの人は二十年、嫌な仕事をさせられてきた。その匂いが染みついてる」
リタは眉を寄せた。
「かわいそうってこと?」
「違う」セレナは首を振った。「その匂いを消したい人だってこと」
子どもは考えて、それから頷いた。
「わかった」
「八日で帰る」
「ほんとに?」
「本当に」
「約束?」
セレナは手を出した。
「約束」
リタは小さな手で握った。
「約束したら、守る人だけが、ここで働ける」
セレナは笑った。
「――そうね」
翌朝、河港は霧だった。
便船は小さく、客は七人だった。ラウルは荷役の格好をしていた。当主が乗るとわかれば、出航前に伝わる。
セレナも荷役の上着だった。三月前、南桟橋で樽を数えたときと同じものだ。
「行くぞ」
「はい」
船が離れた。
桟橋の霧の中に、丸眼鏡の男と、小さな影が立っていた。
リタが手を振っていた。
セレナは振り返さなかった。振り返せば、この街に何を残していくかを、自分ではっきり認めてしまう。
――八日。
彼女は前を向いた。
河の匂いが、少しずつ薄くなっていった。




