第二十五話 水神祭
水神祭の朝は、冷えた。
河から霧が上がって、桟橋の灯が滲んで見える。街中の人間が坂を下ってきていた。荷役も、女房も、子どもも。店は昼から閉まる。
セレナは染物屋で、最後の調合をしていた。
「できた?」リタが炉の前から訊いた。
「もうすぐ」
香は、素焼きの壺三つに分けてある。船の舳先と、中央と、艫。河を下る間、順に焚く。
「においが変わるの?」
「変わるわ」セレナは言った。「舳先が一番軽い。中央が重い。艫は――残る匂い」
「なんで?」
「船が進むと、匂いが後ろへ流れるから」彼女は言った。「岸で見ている人は、船が来る前に軽い匂いを嗅いで、通り過ぎたあとに重い匂いが残る」
リタは考えて、それから目を丸くした。
「船がとおるの、においでわかるってこと?」
「そう」
「すごい」
セレナは壺に蓋をした。
六年前、ヴィオラも同じことを考えたのだろうか。三の月から街中の匂いを集めて、この街の匂いの上に、自分の香を重ねようとしたのだろうか。
――間に合わなかった。
彼女は蓋の上に手を置いた。
今年は、間に合う。
検分は、昼前に組合の理事長室で行われた。
三人が集まった。ラウル、ヘルマン、そしてセレナ。
「手順を申し上げます」セレナは言った。「壺は三つ。私が炉に一つずつ焚きます。お二人は順に嗅いでください。少しでも異常を感じたら、その場で止めてください」
「異常というのは」ヘルマンが訊いた。
「甘さです」セレナは言った。「この香に、甘い層はありません。甘さを感じたら、それは私が入れていないものです」
ラウルが頷いた。
「始めろ」
一つ目。
舳先の香は、軽い。乾いた柑橘の皮と、若い樹脂。冷たく、細い線が一本走る。
ヘルマンが目を閉じ、長く吸った。
「――ない」
「ラウル様は」
「わかる」彼は言った。「薄いが、匂う。冷たい」
セレナは息を吐いた。この二十日で、ここまで戻った。
二つ目。
中央の香は重い。乳香を厚く、没薬を下敷きに。焚くと空気が沈む。
「重いな」ヘルマンが言った。「だが濁っていない」
「甘さは」
「ない」
三つ目。
艫の香を炉に落としたとき、部屋の空気が変わった。
残る匂いだ。柑橘でも樹脂でもない。もっと乾いた、石と水の匂い。
ヘルマンが目を開けた。
「――これは」
「はい」
「河の匂いだ」
「そのつもりで作りました」セレナは言った。「祭のあと、人は家に帰ります。帰り道に残るのは、香ではなく河の匂いであるべきです」
ヘルマンは、しばらく炉を見ていた。
「――先代の香も、こうだった」彼は言った。「二十五年前だ。あの人の香は、最後に何も残さなかった。焚いたのに、河しか残らなかった」
セレナは何も言わなかった。
二十三番の瓶が、頭の隅にあった。
「異常はありません」ヘルマンは立ち上がった。「私は証人として、そう言う」
「ありがとうございます」
「礼はいい」男は帽子を取った。「――君、名前はつけたのかね」
セレナは首を振った。
「まだです」
「祭の香には名が要る。神事だからな」
彼女は炉の灰を見た。
リタは、朝の匂いだと言った。夜明け前の、まだ暗いときの。
「――『まだ暗い』」
「なに」
「そう呼びます」セレナは言った。「夜明け前の、まだ暗い時間の匂いです」
船が出たのは、日が落ちてからだった。
桟橋には灯が並び、河が金色に揺れていた。人が両岸に立っている。声はない。水神祭は静かに行うのが習わしだった。
川船が三艘。先頭に商会の船。舳先に壺が据えられ、火が入る。
セレナは中央の船にいた。ラウルは先頭。ヘルマンは陸で、桟橋の端に立っている。
リタは、セレナの隣にいた。
「ねえ」子どもが袖を引いた。「みんな、だまってる」
「そういうお祭りなの」
「へんなの」
船が動き出した。
舳先の香が、風に乗った。
岸で、誰かが息を吸う音がした。それが伝染した。両岸の人間が、順に顔を上げていく。
軽い。冷たい。細い線が、灯の上を走っていく。
セレナは中央の壺に火を入れた。
重さが来る。空気が沈む。船が河の真ん中に出て、両岸の灯が遠くなった。
――静かだ。
三月前、彼女は王都の東門を出た。腕の中には処分品の木箱があった。
いま、自分の香が街の上を流れている。
「セレナ」リタが小さく言った。「泣いてる」
「泣いてない」
「泣いてる」
セレナは頬に手をやった。濡れていた。
「――風が冷たいの」
「うそ」
子どもは、それ以上言わなかった。代わりに、袖を握った。
艫の壺に火を入れたのは、河口が見えてきた頃だった。
残る匂い。石と水。
船が進み、香が後ろへ流れていく。
セレナは振り返った。
通り過ぎた岸に、人がまだ立っている。彼らはいま、河の匂いを嗅いでいるはずだった。
――届いた。
そのとき、先頭の船で動きがあった。
誰かが立ち上がっている。ラウルではない。船の縁に立って、こちらを見ていた。
セレナは目を細めた。
灯が逆光で、顔が見えない。
だが、外套の裾の落ち方でわかった。荷を運んだことのない体の、立ち方だった。
――ジョスラン。
いつ乗ったのか。祭の船に商会の縁者が乗るのは、おかしくない。おかしくないからこそ、気づかなかった。
男は、こちらを見ていた。
距離は十間ほど。声は届かない。
彼は片手を上げた。
挨拶ではなかった。掌をこちらに向けて、ゆっくりと下ろす。指が三本、立っていた。
それから、二本。
一本。
――数えている。
セレナは背筋が凍った。
男は指を全部畳み、拳にした。
そして、船の中へ戻っていった。
河口で船が止まり、儀式が終わったのは深夜だった。
桟橋に戻ると、ラウルがすぐに近づいてきた。
「叔父が乗っていた」
「見ました」
「いつからだ」
「わかりません」セレナは言った。「出航のときは気づきませんでした」
「何かされたか」
「合図をされました」
ラウルの顔が険しくなった。
「合図」
「指を三本立てて、二本、一本と減らして、拳にしました」
彼はしばらく黙った。
「――数えている」
「はい」
「何を」
「わかりません」セレナは言った。「ですが、あちらは私に見せました。見せるということは、伝えたいということです」
「脅しか」
「脅しなら、こんな遠回しなことはしません」彼女は言った。「あれは、期限です」
ラウルが目を上げた。
「三日ということか」
「わかりません。三日か、三月か、三年か」セレナは言った。「ですが、こう考えると筋が通ります。あちらは、こちらが動いていることを知っている。知っていて、まだ動いていない。なぜか」
「なぜだ」
「動く必要がないからです」
彼女は自分の腕を抱えた。
「私たちは、まだ何も打っていません」セレナは言った。「証拠は集めましたが、使っていない。あちらから見れば、こちらは何もしていないのと同じです」
「――だから待っている」
「はい。そして、こちらが動く前に、期限を切った」
ラウルは河を見た。
灯が消えかけている。人はもう帰りはじめていた。
「南へ行くと言ったな」
「はい」
「いつ出る」
セレナは、少し考えた。
「明後日の便船で」
「明日ではないのか」
「明日は、香の礼が回ります」彼女は言った。「祭の香を出した商会には、街の人間が礼に来ます。それを断ると角が立ちます」
「――律儀だな」
「違います」セレナは言った。「明日、街の人間が商会に集まります。その日、あちらは動けません」
ラウルの目が、ゆっくりと商人のそれに戻った。
「――一日、稼ぐのか」
「はい」




