第二十三話 母の匣
その夜、ラウルは三階の奥の物置から、一つの箱を運んできた。
黒い漆塗りで、蓋に螺鈿の蔓草があしらわれている。手のひら二つ分の大きさで、思ったより重かった。
「これが匣だ」
セレナは息を吸った。
ずっと札の中でしか見ていなかったものが、机の上にある。
「開けても」
「開ける前に言っておく」ラウルは箱に手を置いた。「六年前、妹が倒れたあと、これは俺が仕舞った。中身は数えていない。触りたくなかった」
「鍵は」
「かかっていない」
セレナは布で口と鼻を覆い、窓を開け放った。それから蓋を開けた。
小瓶が並んでいた。
二十四本。首に番号札が結ばれている。一から二十四まで、数字だけ。ヴィオラの字ではない。もっと角の立った、細い字だった。
「これは、お母様の字ですか」
「そうだ」
セレナは瓶を一本ずつ、光にかざした。
中身は多様だった。樹脂、乾いた根、粉末、油。どれも少量で、半分以下しか残っていない瓶がほとんどだった。
使われている。誰かが長年、少しずつ。
「番号を読み上げます」セレナは言った。「書き取ってください」
一番、乳香。上等。
二番、没薬。
三番、甘松。
四番、白檀。
順番に嗅いでいく。布越しに、遠くから。
十番あたりまでは、王都の目録に載っているものばかりだった。等級はどれも高い。だが珍しくはない。
十一番で、手が止まった。
「――知りません」
「灰華か」
「違います」セレナは瓶を光にかざした。「白い粉ですが、灰華ではない。もっと細かい」
彼女は瓶を置き、次に進んだ。
十二番。十三番。十四番。
十五番で、喉の奥が冷えた。
「これです」
ラウルが身を乗り出した。
「灰華か」
「はい」セレナは即座に蓋を閉めた。「量は――半分ほど減っています」
「減っている」
「はい。誰かが使っています」
彼女は瓶を布で包み、机の端に置いた。
残りを続ける。
十六番から二十四番までは、また目録に載るものだった。ただし、二十番と二十三番だけが、彼女には判別できなかった。
「三本、わかりません」セレナは言った。「十一番、二十番、二十三番」
「灰華以外に、名前のないものが三つあるということか」
「はい」
ラウルは書き取りを見下ろした。
「母は、これを何に使っていた」
「わかりません」セレナは言った。「ですが、二十四本のうち四本が目録外です。これは、普通の調香師の匣ではありません」
「では何だ」
「収集家の匣です」彼女は言った。「あるいは――保管者の匣です」
セレナは十四本の試作を並べ直した。
ヴィオラが十の月に作ったものだ。札には番号が書いてある。三の一、七の二、十一の五。
――十一の五。
彼女は手を止めた。
「ラウル様。妹さんの試作に、十一番が出てきます」
「目録外の、あの十一番か」
「はい」セレナは札を確かめた。「十四本のうち、九本に十一番が入っています」
「灰華は」
「十五番は――」彼女は札を追った。「最後の三本だけです」
セレナは椅子に座り直した。
順番が見えた。
ヴィオラは十一番を主役にしようとしていた。九本、比率を変えて試している。灰華が出てくるのは、最後の三本だけ。
つまり、灰華は主役ではない。
「妹さんは、十一番で香を作ろうとしていました」セレナは言った。「灰華は、最後に少しだけ足したものです」
「なぜ足した」
「わかりません。ですが、ヘルマン様に焙るなと言われたのは、たぶんこの段階です」
彼女は十一本目の瓶を手に取った。
布越しに、慎重に嗅ぐ。
白い粉。細かい。匂いは――ほとんどない。
「――変ですね」
「何がだ」
「匂いがしません」セレナは言った。「これを主役にして、香は組めません」
ラウルが眉を寄せた。
「なら、何のために九本も試した」
セレナは答えられなかった。
彼女は瓶を光にかざした。粉は白く、雪のように細かい。指で触れると、ざらつかない。
――これも、焙るのか。
彼女は炉を見た。
「試してよろしいですか」
「駄目だ」ラウルが即座に言った。
「ごく少量です」
「駄目だと言っている」
セレナは彼を見た。ラウルの顔は硬かった。
「あなたが試したときは、私が止めましたか」
「止めた」
「止まりましたか」
「――止まらなかったな」
「同じです」
彼はしばらく黙って、それから息を吐いた。
「条件がある。俺が外に出ている間はやるな。それから、リタを起こして外に出せ」
「わかりました」
実験は、翌朝行われた。
リタは河港へ使いに出した。ラウルは土間の外、風上に立った。セレナは布で口を覆い、窓を全部開けた。
炉に灰を敷き、白い粉をひとつまみ落とす。
熱が入る。
――何も起きない。
もう少し温度を上げた。
粉がわずかに色を変えた。白から、淡い灰色へ。
そして、匂いが立った。
セレナは反射的に一歩下がった。
甘い。強烈に甘い。蜜でも花でもない。もっと粘る、喉に絡むような甘さだった。
「ラウル様、離れてください」
「わかっている」
彼女はもう一度、遠くから嗅いだ。
甘さの奥に、何かある。
――冷たい。
灰華の冷たさとは違う。もっと柔らかい。とろけるような、輪郭のない冷たさだ。
セレナは炉に水をかけ、外に出た。
河の風を三度吸って、それから自分の状態を確かめた。
鼻は利く。頭も痛くない。
だが、指先が少し痺れていた。
「何だった」
「わかりません」セレナは井戸端で手を洗いながら言った。「焙ると甘い匂いが出ます。ですが、これは香料ではありません」
「なぜ言い切れる」
「香りの形をしていないからです」彼女は言った。「香料は、時間で変化します。最初にこれが来て、次にこれが来て、最後にこう残る。この粉には、それがありません。ただ甘いだけです」
「では何だ」
「薬だと思います」
ラウルの目が動いた。
「――薬」
「甘い匂いを出すために焙るのではなく、焙ることで何かが変わる粉です」セレナは手を拭いた。「指先が痺れました。ごく軽くですが」
「毒か」
「わかりません」彼女は言った。「ですが、量を増やせば、たぶん」
二人は井戸端に立ったまま、しばらく黙っていた。
「ラウル様」セレナは言った。「妹さんは、これを九本試しています」
ラウルの顔が強張った。
「――知らずに」
「知らずに、だと思います」
「あいつは、それを嗅いだのか」
「嗅いだはずです」セレナは言った。「調香とは、そういう作業です」
彼は井戸の縁を掴んだ。
「十七の娘が、九本」
「はい」
「三日眠って、記憶がないと言った」ラウルの声が震えた。「医者は原因を言い当てられなかった」
セレナは頷いた。
「――ラウル様」彼女は言った。「妹さんの記憶がないのは、本当かもしれません」
彼が振り返った。
「あの方は、嘘をついていないのかもしれません」
その日の午後、セレナは事務室で紙を広げた。
書いたのは、一行だけだった。
――なぜ、母の匣に薬が入っていたのか。
彼女は筆を置き、窓の外を見た。
二十四本の匣。四本が目録外。うち一つは嗅覚を奪い、一つは記憶を奪う。
二十年前から、南の荷が入り続けている。
母は十六年前に病死し、翌年から叔父が受け取っている。
――保管者の匣。
誰かが、これを集めていた。集めて、番号をつけて、匣に入れていた。
その誰かは、中身が何かを知っていたはずだ。
セレナは、もう一行書いた。
――知っていた人間は、母だけか。
水神祭まで、四日。




