↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奪われた香りは、私のものです ~王家御用達の調香師見習いは、追われた辺境で自分の工房を持つことにした~  作者: やまご


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/57

第二十二話 なぜ未焙だったのか

 ヘルマンは、朝の組合にいた。

 セレナが入っていくと、彼は帳場から顔を上げ、それから奥へ目を向けた。

「理事長室へ」

 閂がかかると、男は椅子に沈んだ。

「読んだかね」

「読みました」

「では、訊きたいことがあるだろう」

「一つだけです」セレナは言った。「六年前の十一の月六日。なぜ、四分の一しか焙らなかったのですか」

 ヘルマンは眼鏡を外した。

 しばらく、レンズを布で拭いていた。拭き終えても、かけ直さなかった。

「――あの年は、祭の香を坊ちゃんの妹さんが作ることになっていた」

「はい」

「十の月の終わりに、あの子が組合に来た」男は言った。「材料の相談だと言ってね。まだ十七だ。祭の香を任されて、張り切っていた」

 セレナは黙って聞いた。

「あの子は、母上の匣の話をした」ヘルマンは言った。「番号だけが振られた、名前のない香料の匣だ。母上が遺したものだと。その中に、扱い方のわからないものがあると」

「灰華ですね」

「あの子は名前を知らなかった。番号でしか呼べなかった」男は言った。「私に、これは何かと訊いた」

「答えたのですか」

「答えられん」ヘルマンは首を振った。「私は名前も用途も知らない。焙って渡すだけだ。だが――」

 彼は言葉を止めた。

「だが?」

「私はあの子に、こう言った。それは焙ってはいけない、と」

 セレナは息を止めた。

「なぜ、そう言われたのですか」

「勘だ」男は言った。「二十年焙ってきて、あれを焙るときだけ、私は窓を全部開ける。手拭いで口を覆う。誰にも教わっていないが、そうしないと頭が痛くなる。体が先に知っていた」

「――それを、妹さんに」

「言った。焙るなと。生のまま使えと」ヘルマンは眼鏡をかけ直した。「あの子は頷いた。素直な子だった」

 セレナは机に手をついた。

 だから、ヴィオラの香は未焙の灰華で作られている。

 だから、無害だった。

「では、なぜ四分の一だけ焙ったのですか」

 ヘルマンの顔が歪んだ。

「あの月の荷が入ったとき、指示が来た」

「指示」

「別棟からだ。いつも通り全量焙れ、と」男は言った。「だが私は、あの子が生のまま欲しがっていることを知っていた。四分の三を未焙のまま渡して、あの子の分に回るようにした」

「四分の一は」

「指示に従った形を作るためだ」ヘルマンは言った。「全部未焙で渡せば、私が勝手をしたことになる。少しは焙っておかないと、辻褄が合わない」

 セレナは、しばらく動けなかった。

「――ヘルマン様」

「なんだ」

「その四分の一が、ラウル様の食事に使われました」

 男の顔から、血の気が引いた。

「六年前の十一の月です」セレナは言った。「そこから、あの方の鼻は壊れました」

 部屋の中で、時計の音だけがしていた。

 ヘルマンは机の上で両手を組み、そのまま長いこと動かなかった。

 やがて、掠れた声で言った。

「――私が、焙ったのか」

「あなたが焙りました」

「私が」

「はい」

 セレナは、慰めなかった。

 慰めれば、この人はここで止まる。止まったら、二十年分の手が動かなくなる。

「あなたは妹さんを守ろうとして、四分の三を生のまま渡しました」彼女は言った。「その判断は正しかった。妹さんの香は無害でした。街の人間は誰も被害を受けていない」

「だが坊ちゃんが」

「はい」セレナは言った。「あなたが辻褄合わせに焙った四分の一が、あの方に使われました」

 ヘルマンは顔を覆った。

 肩が震えていた。丸眼鏡の男が声を殺して泣くのを、セレナは黙って見ていた。

 やがて彼は顔を上げた。

「――教えてくれ。私は何をすればいい」

「二つ、お願いがあります」

「言いなさい」

「一つ。六年前、あなたに全量焙れと指示したのは、誰でしたか」

「別棟の使いだ」ヘルマンは言った。「文書で来る。署名はない」

「その文書は」

「取ってある」

 セレナは目を上げた。

「二十年分、全部か」

「全部だ」男は棚の上を指した。「あれが、私の首を守る唯一のものだった」

 セレナは立ち上がった。

「――ヘルマン様、それが原本です」

「なに」

「あなたは、証拠を最初から持っておられます」彼女は言った。「あなたが書いた受領記録は、あなたの創作だと言われれば終わりです。ですが、別棟から来た指示書は違います」

 男の目が見開かれた。

「署名はないと言ったぞ」

「筆跡があります」セレナは言った。「二十年分あるなら、書いた人間が何人いたかもわかります。途中で変わっているはずです」

 ヘルマンは棚を見上げた。

「――十五年前から、字が変わった」

 セレナの背筋が伸びた。

「引き渡し先が家名から個人名に変わった年と、同じですね」

「同じだ」

「では、その前の字は」

「先代のものだ」ヘルマンは言った。「私は先代の字を知っている。商会の証文を何度も見た」

 セレナは机の縁を握った。

「ヘルマン様。二つ目のお願いです」

「言いなさい」

「その指示書を、隠してください」

 男が眉を寄せた。

「――写せ、ではないのか」

「写しは要りません」セレナは言った。「原本を、組合の外に出してください。あなたの家でもない場所へ」

「どこへ」

「私も知らない場所へ」

 ヘルマンが目を細めた。

「私が持ち逃げすると思わんのか」

「思いません」彼女は言った。「あなたが逃げるつもりなら、二十年分の受領記録を十日で写したりしません」

 男は、少し笑った。

「――君は、人の使い方が上手いな」

「王都で三年、使われる側でしたので」


 組合を出ると、坂の下から風が上がってきていた。

 水神祭まで、あと五日。

 セレナは頭の中で、手持ちを数え直した。

 一、二十年分の受領記録の写し。証拠にならないが、地図になる。

 二、二十年分の指示書の原本。ヘルマンが隠す。

 三、商会の帳簿の不正記帳十一行。ラウルが押さえている。

 四、灰華の性質。焙らなければ無害。柑橘の皮に吸わせれば無臭。

 五、ラウルの回復しつつある嗅覚。

 六、ヴィオラの十四本と、母の匣の存在。

 ――足りない。

 全部並べても、ジョスランを刺せる形にならない。

 灰華の所持は罪ではない。荷を受け取ることも罪ではない。帳簿の数字が合わないのは、商会の内部問題だ。

 罪になるのは、意図の証明だけだ。

 六年前、誰が、何のために、ラウルの鼻を壊したのか。

 セレナは坂の途中で足を止めた。

 ――何のために。

 そこが、まだ埋まっていない。

 商会を乗っ取るためなら、鼻を壊すより有効な手段はいくらでもある。当主を殺すか、後見を立てるか。実際、六年前のラウルは二十一だった。父が健在だった。鼻を壊しても、当主の座は動かない。

 なぜ、鼻だったのか。

 セレナは自分の手を見た。三月前まで王都で調香をしていた手だ。

 ――鼻を壊せば、何ができなくなる。

 答えは一つだった。

 香が作れなくなる。判定ができなくなる。

 そして。

 彼女は顔を上げた。

 母の匣の中身が何かを、確かめられなくなる。


 その夜、セレナは事務室に上がった。

「ラウル様。お母様は、どんな方でしたか」

 ラウルは帳簿から顔を上げた。

「――藪から棒だな」

「大事なことです」

 彼はペンを置いた。

「静かな人だった。香の家の出で、嫁いできてからも作り続けていた」

「亡くなられたのは」

「十六年前だ。俺が十一、妹が一つのときだ」

 セレナは筆を止めた。

「――十六年前」

「病気だと聞いている」

 彼女は書き取りを見た。

 指示書の字が変わったのが、十五年前。

 引き渡し先が家名から個人名に変わったのが、十五年前。

「ラウル様」セレナは言った。「お母様が亡くなられた翌年から、灰華の受け取りは叔父さまになっています」

 ラウルの手が止まった。

「その前は、家名だけです」彼女は言った。「誰が受け取っていたか、記録にありません」

 部屋が静かになった。

「――待て」ラウルの声が低くなった。「まさか」

「わかりません」セレナは言った。「ですが、母方が香の家系で、匣に名前のない香料を持っていて、二十年前から荷が入っていて」

 彼女は言葉を切った。

「――お母様が、受け取っておられた可能性があります」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。