第二十二話 なぜ未焙だったのか
ヘルマンは、朝の組合にいた。
セレナが入っていくと、彼は帳場から顔を上げ、それから奥へ目を向けた。
「理事長室へ」
閂がかかると、男は椅子に沈んだ。
「読んだかね」
「読みました」
「では、訊きたいことがあるだろう」
「一つだけです」セレナは言った。「六年前の十一の月六日。なぜ、四分の一しか焙らなかったのですか」
ヘルマンは眼鏡を外した。
しばらく、レンズを布で拭いていた。拭き終えても、かけ直さなかった。
「――あの年は、祭の香を坊ちゃんの妹さんが作ることになっていた」
「はい」
「十の月の終わりに、あの子が組合に来た」男は言った。「材料の相談だと言ってね。まだ十七だ。祭の香を任されて、張り切っていた」
セレナは黙って聞いた。
「あの子は、母上の匣の話をした」ヘルマンは言った。「番号だけが振られた、名前のない香料の匣だ。母上が遺したものだと。その中に、扱い方のわからないものがあると」
「灰華ですね」
「あの子は名前を知らなかった。番号でしか呼べなかった」男は言った。「私に、これは何かと訊いた」
「答えたのですか」
「答えられん」ヘルマンは首を振った。「私は名前も用途も知らない。焙って渡すだけだ。だが――」
彼は言葉を止めた。
「だが?」
「私はあの子に、こう言った。それは焙ってはいけない、と」
セレナは息を止めた。
「なぜ、そう言われたのですか」
「勘だ」男は言った。「二十年焙ってきて、あれを焙るときだけ、私は窓を全部開ける。手拭いで口を覆う。誰にも教わっていないが、そうしないと頭が痛くなる。体が先に知っていた」
「――それを、妹さんに」
「言った。焙るなと。生のまま使えと」ヘルマンは眼鏡をかけ直した。「あの子は頷いた。素直な子だった」
セレナは机に手をついた。
だから、ヴィオラの香は未焙の灰華で作られている。
だから、無害だった。
「では、なぜ四分の一だけ焙ったのですか」
ヘルマンの顔が歪んだ。
「あの月の荷が入ったとき、指示が来た」
「指示」
「別棟からだ。いつも通り全量焙れ、と」男は言った。「だが私は、あの子が生のまま欲しがっていることを知っていた。四分の三を未焙のまま渡して、あの子の分に回るようにした」
「四分の一は」
「指示に従った形を作るためだ」ヘルマンは言った。「全部未焙で渡せば、私が勝手をしたことになる。少しは焙っておかないと、辻褄が合わない」
セレナは、しばらく動けなかった。
「――ヘルマン様」
「なんだ」
「その四分の一が、ラウル様の食事に使われました」
男の顔から、血の気が引いた。
「六年前の十一の月です」セレナは言った。「そこから、あの方の鼻は壊れました」
部屋の中で、時計の音だけがしていた。
ヘルマンは机の上で両手を組み、そのまま長いこと動かなかった。
やがて、掠れた声で言った。
「――私が、焙ったのか」
「あなたが焙りました」
「私が」
「はい」
セレナは、慰めなかった。
慰めれば、この人はここで止まる。止まったら、二十年分の手が動かなくなる。
「あなたは妹さんを守ろうとして、四分の三を生のまま渡しました」彼女は言った。「その判断は正しかった。妹さんの香は無害でした。街の人間は誰も被害を受けていない」
「だが坊ちゃんが」
「はい」セレナは言った。「あなたが辻褄合わせに焙った四分の一が、あの方に使われました」
ヘルマンは顔を覆った。
肩が震えていた。丸眼鏡の男が声を殺して泣くのを、セレナは黙って見ていた。
やがて彼は顔を上げた。
「――教えてくれ。私は何をすればいい」
「二つ、お願いがあります」
「言いなさい」
「一つ。六年前、あなたに全量焙れと指示したのは、誰でしたか」
「別棟の使いだ」ヘルマンは言った。「文書で来る。署名はない」
「その文書は」
「取ってある」
セレナは目を上げた。
「二十年分、全部か」
「全部だ」男は棚の上を指した。「あれが、私の首を守る唯一のものだった」
セレナは立ち上がった。
「――ヘルマン様、それが原本です」
「なに」
「あなたは、証拠を最初から持っておられます」彼女は言った。「あなたが書いた受領記録は、あなたの創作だと言われれば終わりです。ですが、別棟から来た指示書は違います」
男の目が見開かれた。
「署名はないと言ったぞ」
「筆跡があります」セレナは言った。「二十年分あるなら、書いた人間が何人いたかもわかります。途中で変わっているはずです」
ヘルマンは棚を見上げた。
「――十五年前から、字が変わった」
セレナの背筋が伸びた。
「引き渡し先が家名から個人名に変わった年と、同じですね」
「同じだ」
「では、その前の字は」
「先代のものだ」ヘルマンは言った。「私は先代の字を知っている。商会の証文を何度も見た」
セレナは机の縁を握った。
「ヘルマン様。二つ目のお願いです」
「言いなさい」
「その指示書を、隠してください」
男が眉を寄せた。
「――写せ、ではないのか」
「写しは要りません」セレナは言った。「原本を、組合の外に出してください。あなたの家でもない場所へ」
「どこへ」
「私も知らない場所へ」
ヘルマンが目を細めた。
「私が持ち逃げすると思わんのか」
「思いません」彼女は言った。「あなたが逃げるつもりなら、二十年分の受領記録を十日で写したりしません」
男は、少し笑った。
「――君は、人の使い方が上手いな」
「王都で三年、使われる側でしたので」
組合を出ると、坂の下から風が上がってきていた。
水神祭まで、あと五日。
セレナは頭の中で、手持ちを数え直した。
一、二十年分の受領記録の写し。証拠にならないが、地図になる。
二、二十年分の指示書の原本。ヘルマンが隠す。
三、商会の帳簿の不正記帳十一行。ラウルが押さえている。
四、灰華の性質。焙らなければ無害。柑橘の皮に吸わせれば無臭。
五、ラウルの回復しつつある嗅覚。
六、ヴィオラの十四本と、母の匣の存在。
――足りない。
全部並べても、ジョスランを刺せる形にならない。
灰華の所持は罪ではない。荷を受け取ることも罪ではない。帳簿の数字が合わないのは、商会の内部問題だ。
罪になるのは、意図の証明だけだ。
六年前、誰が、何のために、ラウルの鼻を壊したのか。
セレナは坂の途中で足を止めた。
――何のために。
そこが、まだ埋まっていない。
商会を乗っ取るためなら、鼻を壊すより有効な手段はいくらでもある。当主を殺すか、後見を立てるか。実際、六年前のラウルは二十一だった。父が健在だった。鼻を壊しても、当主の座は動かない。
なぜ、鼻だったのか。
セレナは自分の手を見た。三月前まで王都で調香をしていた手だ。
――鼻を壊せば、何ができなくなる。
答えは一つだった。
香が作れなくなる。判定ができなくなる。
そして。
彼女は顔を上げた。
母の匣の中身が何かを、確かめられなくなる。
その夜、セレナは事務室に上がった。
「ラウル様。お母様は、どんな方でしたか」
ラウルは帳簿から顔を上げた。
「――藪から棒だな」
「大事なことです」
彼はペンを置いた。
「静かな人だった。香の家の出で、嫁いできてからも作り続けていた」
「亡くなられたのは」
「十六年前だ。俺が十一、妹が一つのときだ」
セレナは筆を止めた。
「――十六年前」
「病気だと聞いている」
彼女は書き取りを見た。
指示書の字が変わったのが、十五年前。
引き渡し先が家名から個人名に変わったのが、十五年前。
「ラウル様」セレナは言った。「お母様が亡くなられた翌年から、灰華の受け取りは叔父さまになっています」
ラウルの手が止まった。
「その前は、家名だけです」彼女は言った。「誰が受け取っていたか、記録にありません」
部屋が静かになった。
「――待て」ラウルの声が低くなった。「まさか」
「わかりません」セレナは言った。「ですが、母方が香の家系で、匣に名前のない香料を持っていて、二十年前から荷が入っていて」
彼女は言葉を切った。
「――お母様が、受け取っておられた可能性があります」




