第二十一話 二十年分の紙
写しは、三百二十枚あった。
セレナは染物屋の机に、それを日付順に並べ直した。ヘルマンの字は几帳面で、日付、数量、受領者、引き渡し先が、二十年分ひたすら同じ形式で並んでいる。
夜、ラウルが来た。
「読むぞ」
「はい」
二人は向かい合って座った。灯を二つ点けた。リタは奥で眠っている。
ラウルが読み、セレナが書き取る。三日で二十二冊の帳簿を読んだときと、同じやり方だった。
最初の一年で、形が見えた。
「年に三度から四度」ラウルが言った。「数量は樽で二つか四つ。引き渡し先は――全部、アーデンフェルト家だ」
「先代の当主のお名前ですか」
「いや」彼は紙を目に近づけた。「家名だけだ。個人名がない」
セレナは書き留めた。
五年分読んだところで、ラウルの手が止まった。
「変わった」
「どこですか」
「十五年前だ」彼は紙を回した。「ここから、引き渡し先に個人名が入る」
セレナは読んだ。
――引き渡し先、ジョスラン・アーデンフェルト。
「十五年前から、叔父さまですね」
「そうだ。それまでは家名だけだった」
「その前は、どなたが受け取っておられたのでしょう」
「わからん。ヘルマンに訊く」
セレナは十五年前の項に印をつけた。
さらに読み進める。
十二年前、記載者が変わった。ヘルマンが理事長に就任した年だ。字は同じだが、欄が一つ増えている。「焙り」の欄だった。
「几帳面な男だな」ラウルが言った。「自分の代から、作業内容まで書き足している」
「後で誰かが見ることを、想定していたのだと思います」
「なぜそう思う」
「二十年、何も知らないと言い続けてきた人が、わざわざ作業記録を残す理由は一つです」セレナは言った。「いつか説明が必要になると思っていたからです」
ラウルはしばらく紙を見ていた。
「――保険か」
「保険であり、良心の記録でもあります」
彼は先を読み進めた。
そして、六年前の項で止まった。
「九の月十一日、二樽」ラウルが読んだ。「十の月二日、二樽。十一の月六日、二樽」
「商会の帳簿と一致します」
「一致する」彼は頷いた。「向こうは香料雑・三箱・銀貨四枚と書いていた。こちらは二樽ずつ、三回」
「箱と樽で単位が違いますね」
「意図的だ」ラウルは言った。「同じ荷を、片方は箱、片方は樽で書く。突き合わせにくくするためだ」
セレナは書き取りの手を止めた。
「ラウル様。十一の月六日の項に、何か書いてありますか」
「焙りの欄か」
「はい」
ラウルが紙を近づけた。
「――ある」彼の声が変わった。「焙り、四分の一。残り四分の三、未焙のまま引き渡し」
セレナは立ち上がった。
「未焙」
「そう書いてある」
「二十年で、そんな例が他にありますか」
二人は紙を遡った。
一枚、二枚、三枚。
十枚めくって、セレナが手を止めた。
「ありません」
「一度もないな」
「二十年間、必ず全量を焙って渡している」彼女は言った。「六年前の十一の月だけ、四分の一しか焙らずに、残りをそのまま渡している」
部屋の中で、灯の芯が鳴った。
セレナは机に手をついた。
――生のままでは、ほとんど何も起きない。
実験で確かめたことだった。灰華は熱を通さないと出ない。
「ラウル様」
「なんだ」
「未焙の灰華は、無害です」
彼が顔を上げた。
「――なに」
「焙らなければ、ただの乾いた根です。匂いもほとんどない」セレナは言った。「私が試しました。生のままでは何も起きません」
「では、六年前は」
「四分の一だけ焙られています」彼女は言った。「その四分の一が、どこへ行ったか」
二人はしばらく黙っていた。
答えは、二つしかない。
ヴィオラの香に入ったか、ラウルの食事に入ったか。
「――両方か」セレナは呟いた。
「どういうことだ」
「もし四分の一を、あなたの食事に使い始めたのだとしたら」彼女は言った。「その時期は、六年前の十一の月です」
ラウルの顔が、ゆっくりと変わった。
「俺の鼻が壊れたのは九日だ」
「はい」
「その日、俺は妹の瓶を嗅いだ」
「はい」
「――だが、食事にも入っていたなら」
セレナは椅子に座り直した。
頭の中で、六年前が組み変わっていく。
「ヴィオラ様の瓶が、原因ではないかもしれません」
ラウルが息を呑んだ。
「妹の香は、無害だった可能性があります」セレナは慎重に言った。「あの方が使ったのは、母の匣の香料です。匣の中身が未焙の灰華だったなら、匂いはほとんどしない。あの方は、無害なものを配合していた」
「では、なぜ俺は」
「同じ日に、別の経路で焙ったものを吸わされていたのだとしたら」
部屋が静かになった。
ラウルは両手で顔を覆った。指の間から、掠れた声がした。
「あいつは――何もしていないのか」
「断定はできません」セレナは言った。「ですが、二十年で一度きりの未焙の記録が、その月にあります」
「なぜ未焙で渡した」
「わかりません」
「ヘルマンは知っているか」
「訊きます」
ラウルは顔から手を離した。目が赤かった。
「六年だ」彼は言った。「六年、あいつは自分のせいだと思って生きてきた」
「はい」
「俺も、そう思っていた」
「はい」
「――俺が、あいつをそう思わせた」
セレナは、言葉を選ばなかった。
「そうです」
彼が顔を上げた。
「あなたは六年前、三日眠って起きた妹さんに、何があったか言えと迫りました」セレナは言った。「あの方は泣いて、覚えていないと言った。それきり何も言わなくなった」
「――ああ」
「そのあと、あなたは調べるのをやめた。妹さんは領地へ行った。手紙は叔父さまを経由するようになった」
彼女は写しの束に手を置いた。
「あなたが調べ続けていれば、六年前にこれが出ていたかもしれません」
ラウルは何も言わなかった。
「ですが」セレナは続けた。「調べ続けていたら、あなたも河に浮いていた可能性があります」
彼が目を上げた。
「二人死んでいます」彼女は言った。「商人と、医者崩れ。どちらもあなたの味方でした」
灯が揺れた。
「あなたが調べるのをやめたから、あなたは生きています」セレナは言った。「六年、生きていた。だから今、私と一緒にこれを読んでいます」
ラウルは長いこと黙っていた。
やがて、彼は写しの束を手に取った。
「――残りを読む」
「はい」
「まだ十四年分ある」
夜明け近くまでかかった。
六年前より後は、形が変わっていた。年に二度、樽は四つ。焙りは全量。引き渡し先はジョスラン。数量が安定している。
「四年前から、増えている」ラウルが言った。「年二度が、年三度になった」
「四年前は」
「親父が死んだ年だ」
セレナは書き取った。
最後の一枚を読み終えて、二人はしばらく机を見ていた。
「これで、何が言えますか」セレナが訊いた。
「二十年、灰華が組合を経由してうちに入っていた」ラウルは指を折った。「十五年前から受け取りは叔父。六年前に一度だけ未焙の引き渡しがあった。父が死んでから量が増えた」
「証拠としては」
「弱い」彼は言った。「ヘルマンの写しは、ヘルマンが書いたものだ。原本を出さなければ、あいつの創作だと言われる」
「原本を出させれば」
「あいつが殺される」
セレナは頷いた。
外が白みはじめていた。
「ラウル様。この写しは、証拠として使いません」
「では何に使う」
「地図です」彼女は言った。「どこを掘れば原本が出るか、これでわかります」
「原本は組合にある」
「もう一つあります」セレナは言った。「引き渡された側にも、記録があるはずです」
ラウルの目が動いた。
「――別棟か」
「二十年、荷を受け取り続けた人が、記録を残していないはずがありません」彼女は言った。「特に、これだけ長く続けているなら」
「なぜ残す」
「同じ理由です」セレナは言った。「ヘルマン様が写しを残した理由と」
彼女は灯を吹き消した。
「いつか、説明が必要になるからです」




