第二十話 祭の香
アルシェには、秋の終わりに水神祭がある。
河港の桟橋に灯を並べ、川船を仕立てて、河口まで下る。船には香を焚く。水の神に一年の無事を礼するための、この街で一番古い行事だった。
「今年の香は、うちが出す」
事務室でラウルが言った。
「毎年ですか」
「順番だ。商会と組合と、あと三軒の大店で回している。六年ぶりにうちの番が回ってきた」
セレナは筆を止めた。
「六年前も、商会だったのですね」
「そうだ」ラウルは頷いた。「妹が作った」
部屋が静かになった。
「――祭の香を、ヴィオラ様が」
「十七だった。母方の血だからと、親父が任せた」彼は言った。「あいつは張り切っていた。三の月から準備を始めて、街中の匂いを集めて回った」
セレナは、三階の棚を思い出した。
三の月、四十一本。四の月、五十八本。増えていって、九の月で百を超える。
あれは、祭の香のための素材集めだった。
「十の月に本数が減ります」
「作りはじめたんだろう」
「はい。母の匣の香料で、十四本の試作を」
「そして十一の月に完成した」ラウルは言った。「祭は十一の月の十五日だ」
セレナは息を吸った。
「――間に合っていますね」
「間に合っていた」
「ですが妹さんは、九日に倒れました」
「六日前だ」ラウルの声が硬くなった。「祭には、別の香が焚かれた。組合が急遽用意した」
セレナは筆を置いた。
頭の中で、日付が並び直していく。
十一の月六日、樽が入る。
十一の月、ヴィオラが完成させる。二本。
九日、兄に嗅がせ、兄の鼻が壊れ、妹が倒れる。
十五日、祭。ヴィオラの香は焚かれない。
――順番が、逆だったのではないか。
セレナは顔を上げた。
「ラウル様。もし妹さんが倒れなければ、あの香は祭で焚かれていました」
「そうなるな」
「街中の人間が、それを吸っています」
ラウルの顔から、色が引いた。
「――待て」
「はい」
「妹の香が、灰華入りだったなら」
「街の人間が、全員三日、鼻を失っていました」セレナは言った。「あるいは、もっと」
彼は立ち上がった。
「そんなことをして、誰に得がある」
「わかりません」セレナは首を振った。「ですが、逆に考えることはできます。妹さんが倒れたおかげで、それは起きなかった」
部屋の空気が変わった。
「――防いだのか」ラウルの声が掠れた。「あいつが」
「わかりません」
「だが、可能性はある」
「あります」セレナは言った。「妹さんは、完成品を二本作りました。一本をあなたに渡し、もう一本には、これで最後にする、と書きました」
彼女は言葉を選んだ。
「もし気づいたのだとしたら。作っている途中で、これは祭で焚いてはいけないものだと気づいたのだとしたら」
「なぜ俺に嗅がせた」
「それが、わかりません」
セレナは正直に言った。
「わからないので、確かめたいのです」
祭の香の準備は、商会の名で組合に発注される。それが慣例だった。
「今年は変える」ラウルは言った。「うちで作る」
「作り手は」
「あんただ」
セレナは目を上げた。
「私は登録がありません」
「祭の香に登録は要らん」ラウルは言った。「あれは商品じゃない。神事に納めるものだ。組合の管轄外だ」
「――理事長が黙っていますか」
「黙らせる必要はない」彼は言った。「ヘルマンに直接言う。写しの件で、あいつはもう半分こちら側だ」
セレナは考えた。
祭の香は、街中の人間が吸う。それを自分が作る。
六年前、ヴィオラがやろうとしたことと、同じ位置に立つ。
「一つ、条件があります」彼女は言った。「原料を全部、私が選ばせてください。組合からも別棟からも、一切受け取りません」
「当然だ」
「それと、調合は染物屋でやります。この建物ではやりません」
「わかった」
「最後に」セレナは言った。「完成品を、祭の前に三人で嗅ぎます。あなたと、私と、ヘルマン様と」
ラウルが眉を上げた。
「ヘルマンを入れるのか」
「入れます」彼女は言った。「あの方は焙りの技術を持っています。二十年、灰華を扱ってきた。私より詳しいかもしれません」
「信用するのか」
「信用ではありません」セレナは言った。「証人にします」
準備は十二日あった。
セレナは染物屋にこもった。リタが炭を熾し、水を汲み、乾いた材料を選り分ける。
「これ、なに?」
「乳香。上等なほう」
「上等ってどうやってわかるの」
「割って、中を見る」セレナは粒を一つ割った。「濁った白なら本物。透き通った飴色なら偽物」
リタは受け取って、光にかざした。
「これは……にごってる」
「正解」
「じゃあこっちは」
「それも本物。ただ古い」
「なんでわかるの」
「表面に膜が張ってる。指で押すと硬い」
子どもは粒を押し、頷いた。それから、自分で二つ目の粒を割った。教えていないのに、割り方が正しかった。
セレナは手を止めて、しばらくその手元を見ていた。
この子は覚えるのが速い。速すぎるほどだ。
――ヴィオラも、こうだったのだろうか。
十七で祭の香を任される娘が、どんなふうに育ったのか。誰が教えたのか。母の匣を、誰が見せたのか。
「リタ」
「なに」
「あなた、母さんのこと覚えてる?」
子どもの手が止まった。
「……ちょっと」
「ごめん。訊かないほうがよかったわね」
「べつに」リタは粒を並べ直した。「病気で死んだ。港のとこで、みんなで住んでたから、あたしだけ残った」
セレナは何も言わなかった。
子どもは粒を三つ、きれいに並べた。
「セレナは?」
「私?」
「かあさん」
「早くに死んだわ。父さんも」セレナは言った。「私を引き取ったのが、王都の工房の主人だった。義理の姉がいた」
「なかよし?」
「いいえ」
「けんかした?」
「したかった」セレナは言った。「けんかもさせてもらえなかった」
リタは首を傾げて、それ以上は訊かなかった。
香は、七日目に形が見えた。
水神祭の香だから、水に負けない匂いにする必要がある。河の上は湿気が多く、風がある。軽い香りは全部飛ぶ。
セレナは土台に乳香を置き、そこに没薬を重ねた。
そして、柑橘の油を一滴だけ落とした。
三月前に自分で蒸留した、あの油だ。
湯気に乗せると、乳香の重さの上を、細い線が一本走った。
――近い。
「これ」リタが顔を上げた。「あさの匂い」
セレナは手を止めた。
「朝?」
「うん。まだくらいときの」
子どもは自分の言葉に自信がなさそうだった。
「夜明け前ってこと?」
「そう。それ」
セレナは、しばらく湯気を見ていた。
――黎明。
王都で三年かけて作った香に、自分でつけた名前ではない。あれはガレル師が発表の場でつけた名だ。だが、確かにそういう匂いだった。夜が明ける直前の、まだ冷たくて、少しだけ甘い空気。
いま自分は、それに近いものを、別の目的で組み直している。
名前は、まだつけていない。
十日目、ヘルマンが染物屋に来た。
写しを抱えていた。厚い束だった。
「二十年分だ」男は机に置いた。「十日でやれと言われて、本当にやった。腕が痺れている」
「ありがとうございます」
「礼はいい」ヘルマンは椅子に腰を下ろした。「それより、祭の香を君が作ると聞いた」
「はい」
「――正気かね」
「正気です」
「六年前と同じことをしている」
「知っています」セレナは言った。「ですから、あなたに嗅いでいただきたいのです」
ヘルマンは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「私は調香師ではない」
「焙りの技術をお持ちです」
「あれは技術じゃない。手順を覚えているだけだ」
「同じことです」セレナは言った。「二十年、あなたはあれを扱ってきた。何も知らないと言いながら、手はずっと知っていた」
男は眼鏡をかけ直した。
そして、机の上の小皿を見た。乳香と没薬と、柑橘の油。
「――嗅いでもいいのかね」
「お願いします」
ヘルマンは湯気に顔を寄せ、目を閉じた。
長く、吸った。
やがて彼は目を開け、しばらく黙っていた。
「これは」
「はい」
「――先代の作った香に、少し似ている」
セレナの手が止まった。
「先代」
「ラウル坊ちゃんの母上だ」ヘルマンは言った。「二十五年前、あの人が祭の香を作った。私はまだ薬種商だったが、あの匂いは覚えている」
彼は湯気を見ていた。
「あの年の祭が、この街で一番きれいだった」




