第十九話 二十日目の夜
十日は、静かに過ぎた。
静かすぎた。
台所の供給は止まったままだった。ラウルの鼻は、少しずつ戻っていた。三日目に湯気。七日目に雨。十日目には、井戸端で泥の匂いがすると言った。
「泥だ」彼は井戸の縁石に手をついた。「昨日まで気づかなかった。雨のあとの、この、土が濡れた匂いだ」
「戻る速さとしては、遅い方です」
「六年分だぞ」
「六年分にしては速いです」セレナは言った。「体に溜まったものが抜けているだけなら、もっと遅い。これは、抜けたあとで鼻そのものが起きてきている」
彼女は言葉を選んだ。
「――ですが、まだ足りません」
「何が」
「あなたが自分で判定できる日は、まだ来ていません」
ラウルは苦笑した。
「急かすな」
「急かします」
その十日の間に、セレナは三つのことをした。
一つ。匂い袋の生産を、リタと二人で回した。八十個から二百個に増やし、河港の詰所と、坂の中腹の宿屋二軒に卸した。売上は月で銀貨四枚になった。目利きの給金の三分の一だ。
二つ。ヴィオラの十四本の試作を、全部書き写して並べ直した。
三つ。ラウルの寝室の匂いを、毎朝調べた。
三つ目は、彼が嫌がった。
「俺の部屋に、毎朝入るのか」
「入ります」
「あんた、それがどういうことかわかっているか」
「わかります。ですが経路は食事だけとは限りません」セレナは言った。「寝具、衣服、灯、床の蝋。全部順番に潰します」
「使用人に見られるぞ」
「見られます」
ラウルは何か言いかけて、やめた。それから、鍵をもう一つ寄越した。
寝室は簡素だった。寝台と、洗面台と、椅子が一つ。装飾がない。壁に絵もない。荷役の宿と大差なかった。
セレナは毎朝、そこで五分だけ深く息をした。
寝具。麻と、洗濯の灰汁。
床。蝋と埃。
衣服。仕立て屋の樟脳。
――何もない。
十日目の朝、彼女は洗面台の下に手を入れた。指先に、埃とは違う手触りがあった。
引き出すと、小さな布袋だった。
乾いている。中身は薬草らしい。セレナは布越しに握り、匂いを確かめた。
ラベンダーと、カモミール。眠りのための袋だ。ごく普通のもの。
だが、袋の底に指を入れると、粒が混じっていた。
乾いた柑橘の皮。細かく砕いたもの。
セレナは動きを止めた。
――ここにもある。
「これは」
事務室で袋を見せると、ラウルは眉を寄せた。
「知らん」
「あなたの寝台の下です」
「置いた覚えはない」
「六年前から、ありますか」
「――わからん」彼は袋を手に取った。「掃除は女中がやる。寝台の下まで俺は見ない」
セレナは袋を取り返し、机に置いた。
「これを、確かめます」
「どうやって」
「私が試します」
ラウルの手が動いた。彼女の手首を掴んだのだ。
「駄目だ」
「他に方法がありません」
「あんたが鼻を失ったら、全部終わる」
「終わりません」セレナは静かに言った。「私は配合を全部紙に書いています。ヴィオラ様の十四本も、灰華の性質も。私が嗅げなくなっても、記録は残ります」
「そういう話じゃない」
ラウルの声が、はじめて荒れた。
セレナは彼を見上げた。手首を掴む力が強い。痛いほどではない。だが、この人がこんなふうに人に触れるのを、彼女は見たことがなかった。
「――放してください」
彼はすぐに手を離した。自分の手を見て、それから背を向けた。
「すまん」
「いいえ」
「だが、駄目だ」ラウルは窓の方を向いたまま言った。「あんたに試させはしない」
「では、どうやって確かめますか」
「俺が嗅ぐ」
セレナは息を止めた。
「――あなたは、六年かけて抜けかけているところです」
「だから俺だ」彼は振り返った。「俺の鼻は、もう一度壊れても元に戻る。実証済みだ。あんたのは実証されていない」
理屈が通っていた。
通っていることが、腹立たしかった。
「三日、また戻ります」
「三日で済むならいい」
「済まないかもしれません。六年分の上に足すのです」
「そのときは、また止める」ラウルは言った。「同じことをもう一度やるだけだ」
セレナは机の上の袋を見た。
自分が試すと言ったとき、この人は手首を掴んだ。自分が試すと言うときは、当たり前のように言う。
――損得の計算では、そうなる。
だが、それだけではない気がした。
「条件を出します」セレナは言った。「私が調合してからにしてください」
「どういうことだ」
「この袋の中身を、成分ごとに分けます。ラベンダー、カモミール、柑橘。それぞれを別に嗅いでいただく」彼女は言った。「柑橘だけで反応が出れば、それが答えです。全部一度に嗅ぐ必要はありません」
ラウルは考えて、頷いた。
「――それなら、いい」
「もう一つ」
「なんだ」
「嗅ぐのは、私の工房でお願いします」セレナは言った。「この家では嗅がないでください」
その夜、染物屋の土間で、セレナは袋の中身を分けた。
ラベンダーが半分。カモミールが三割。柑橘の皮が二割。
彼女は柑橘を小皿に取り、湯を沸かした。
ラウルは向かいに座っていた。リタは奥の部屋で眠らせてある。
「順番に行きます」セレナは言った。「まずラベンダー」
小皿に湯気を当てる。ラウルが顔を近づけた。
「――何かある。薄いが」
「花の匂いですか」
「花かどうかはわからん。だが、ある」
「では、カモミール」
「同じくらいだ。少し違う気がする」
「柑橘」
セレナは三つ目の皿を出した。
ラウルが身を乗り出す。
湯気が上がった。
彼は吸って――止まった。
長かった。
セレナは彼の顔を見ていた。表情が変わらない。目だけが、机の一点に固定されている。
「ラウル様」
「――ない」
「ない、というのは」
「今、何もなくなった」彼は言った。「ラベンダーの匂いも、消えた」
セレナは即座に皿を土間の外へ持ち出し、水をかけて捨てた。
戻ると、ラウルは椅子に座ったままだった。両手を膝に置いて、まっすぐ前を見ている。
「戸を開けます」
「ああ」
夜の風が入ってきた。河の匂い、タール、湿った石。
セレナは彼の向かいに座り直した。
「わかりましたね」
「わかった」ラウルの声は落ち着いていた。「寝台の下だ。六年間、俺は毎晩それを吸っていた」
「食事と、寝具。二経路です」
「食事を止めても、これがあった」
「はい」
「なら、なぜ三日で湯気がわかった」
セレナは考えていた。
「量です」彼女は言った。「食事の方が多かったのだと思います。寝具の方は、乾いた粉が空気に混じる程度。だから食事を止めただけで、抜ける方が上回った」
「――両方止めれば」
「もっと速く戻ります」
ラウルは長く息を吐いた。それから、片手で顔を覆った。
「六年だぞ」
「はい」
「毎晩、寝る場所に置かれていた」
「はい」
「誰が置いた」
セレナは答えなかった。
答えは決まっている。寝台の下に手を入れられる人間は、寝室の掃除をする人間だ。
女中。六年通しているのは、一人。
ネリ。
沈黙が長かった。
やがて、ラウルが顔から手を離した。
「呼ぶか」
「いいえ」
「なぜだ」
「あの人は、たぶん知りません」セレナは言った。「知っていたら、私が別棟の香料を止めたとき、あんなに怯えません。危ないと言いました。あれは、自分がやっていることの意味を知らない人の怯え方でした」
「置いたのは事実だろう」
「置くように言われたのでしょう」彼女は言った。「眠りによく効く袋だから、坊ちゃまの寝台の下に、と」
ラウルの顔が歪んだ。
「――誰が言った」
「それを、これから確かめます」セレナは立ち上がった。「呼びつけないでください。私が話します」
「あんたばかりが動く」
「私は雇われの目利きです」セレナは言った。「動くのが仕事です」
「セレナ」
彼女は戸口で振り返った。
ラウルは椅子に座ったまま、彼女を見ていた。灯の光が、片側だけ顔に当たっている。
「あんた、俺の手首を掴んだとき、なんて言った」
「放してください、と」
「その前だ」
セレナは思い出した。
「――私は雇われの目利きです、と」
「それは今日、三度目だ」ラウルは言った。「あんたは何かを守るときに、必ずそれを言う」
セレナは何も言えなかった。
「言い方を変えろとは言わん」彼は立ち上がった。「だが、俺はもう、あんたを目利きだと思っていない」
戸の外で、河の音がしていた。
「――ではなんだと」
「まだ言わん」ラウルは言った。「言うのは、あんたの鼻が要らなくなってからだ」
彼は上着を取って、路地へ出ていった。
セレナは、しばらく戸口に立っていた。
自分の心臓が速いことに、遅れて気づいた。
――要らなくなってから。
それは、彼が自分で判定できるようになる日だ。
その日が来たら、自分はこの街にいる理由を一つ失う。
同時に、別の理由が一つ立ち上がる。
セレナは戸を閉め、閂を下ろした。
それから、机の紙に向かって、いつも通りの字で書いた。
――寝具経路、確認。柑橘の皮に灰華。両経路遮断。予測される回復、二十日。




