第十八話 誰が誰を守っているか
その夜、セレナは事務室に上がらなかった。
代わりに、階段の下で待った。ラウルが荷検めから戻る時刻は決まっている。
「珍しいな」彼は上着を脱ぎながら言った。「上がってこないのか」
「今日は、外で話したいのです」
ラウルは彼女の顔を見て、上着を着直した。
二人は中庭を抜けて、裏の井戸端に出た。
月が細い。井戸の縁石が白く光っている。セレナは石の隙間を指した。三月前、灰華の包みを隠した場所だ。
「ここは声が抜けます」彼女は言った。「三方が壁で、上が開いている。中で話すより漏れません」
「用心深いな」
「今日、ヘルマンが工房に来ました」
ラウルの動きが止まった。
セレナは全部話した。組合への勧誘。商会を辞めろという勧告。六年前の医者崩れに同じ忠告をしたという話。そして――リタが嗅ぎ取った、炭の匂い。
話し終えると、ラウルは長いこと井戸を見下ろしていた。
「ヘルマンは、親父の友人だった」やがて彼は言った。
「ご存じでしたか」
「二十年来だ。うちで飯を食ったこともある」ラウルは言った。「親父が寝ついたとき、見舞いに来た数少ない一人だ」
「では、あなたのことも」
「子どもの頃から知っている」
セレナは井戸の縁に手を置いた。
「その方が、あなたの商会から離れろと私に言いました」
「――ああ」
「どう思われますか」
ラウルはすぐには答えなかった。
彼は井戸の水を汲み上げ、桶に落とし、掌で掬って顔を洗った。水が石に跳ねる音がした。
「二つある」彼は顔を拭った。「一つは、あんたが言った通りだ。組合が荷を受け、組合の中で焙っている。ヘルマンは中心にいる」
「もう一つは」
「ヘルマンが、俺を守っているという可能性だ」
セレナは顔を上げた。
「守る」
「考えてみろ」ラウルは桶を置いた。「六年前、医者崩れに忠告した。忠告を聞かなかった男は死んだ。今、あんたに同じ忠告をしている。もし本当に敵なら、忠告なんぞせずに黙って始末すればいい」
「――それは」
「忠告するというのは、死んでほしくないということだ」
セレナは黙った。
その解釈は、考えていなかった。考えなかった自分に気づいて、少し寒くなった。
「ですが」彼女は言った。「炭の匂いはします」
「する」ラウルは頷いた。「だから、こうも言える。ヘルマンは荷を受けている。焙っている。それが何かも知っている。知っていて、六年間、止められずにいる」
「止められない」
「組合の理事長は五十人の寄り合いの長だ」彼は言った。「この街の香料と薬種を扱う全員が、あそこに属している。ヘルマンが荷を拒めば、組合ごと潰される。潰されれば五十人が食えなくなる」
セレナは、丸眼鏡の男の顔を思い出した。
――理由を書けない処分は、処分した側に理由がないことが多い。
あの言い方には、実感があった。
「人質になっている、ということですか」
「かもしれん」ラウルは言った。「俺の鼻が人質なら、あいつは組合を人質に取られている」
井戸の底で、水が鳴った。
「どちらにせよ」セレナは言った。「確かめる方法は一つです」
「言え」
「ヘルマンに、選ばせます」
翌朝、セレナは組合へ行った。
ラウルは同行しなかった。今度は彼が止めなかった。
「一人で行くのが正しい」彼はそう言った。「だが、日が暮れる前に戻れ」
「はい」
「戻らなかったら」
「行かないでください」セレナは言った。「今度は、行かないでください。行けば全部露見します」
ラウルはしばらく黙って、それから頷いた。
「――努力する」
組合の建物は、朝から人の出入りがあった。
薬種商が二人、荷を持って出てくる。中は思ったより雑然としていた。帳場があり、その奥に倉庫の扉がある。
ヘルマンは帳場にいた。セレナを見ても驚かなかった。
「入会かね」
「違います」
セレナは帳場の前に立った。
「昨日のご忠告について、伺いに参りました」
「聞く気になったか」
「その前に、一つだけ確かめたいのです」
セレナは声を落とした。周りに人がいる。彼女はあえて、聞こえる程度の声で言った。
「奥の倉庫で、樽を焙っておられますね」
帳場の空気が止まった。
ヘルマンの手が、帳面の上で完全に止まった。丸眼鏡の奥の目が、はじめて動いた。
彼は帳面を閉じ、立ち上がった。
「奥へ」
通されたのは、倉庫ではなく理事長室だった。
狭い。机と椅子が二つ、壁一面が棚。棚には組合の名簿と、古い帳面が並んでいる。
ヘルマンは扉を閉め、閂をかけた。
「誰から聞いた」
「誰からも」
「では、なぜ知っている」
「あなたから、炭の匂いがしました」
男の顔が歪んだ。笑ったのか、諦めたのか、判別がつかなかった。
「――鼻か」
「はい」
「二十年、誰にも気づかれなかったのに」ヘルマンは椅子に沈んだ。「三月前に来た娘に嗅がれるとはね」
セレナは立ったままだった。
「二十年」彼女は言った。「六年ではなく」
ヘルマンの目が上がった。
彼は、自分が何を言ったかに気づいた顔をしていた。
「――座りなさい」
「立っています」
「座りなさい。長くなる」
セレナは座った。
「私は理事長を十二年やっている」ヘルマンは言った。「その前は、副理事だった。さらにその前は、ただの薬種商だ」
「はい」
「二十年前、私はある荷を受け取った。南から来た樽で、中身に名前がなかった」彼は机の上で指を組んだ。「持ってきたのは、当時の商会の当主だった」
「ラウル様のお父様」
「そうだ。あの人は私に言った。これを預かれ、と。何かは聞くな、と」
セレナは動かなかった。
「私は受け取った。若かったし、商会に逆らえば薬種商は続けられない」ヘルマンは言った。「それから二十年、荷は来続けている。年に数度だ。私は受け取り、焙り、指定された場所へ渡す」
「焙る技術は」
「先代の理事長から引き継いだ」男は言った。「あの人も、その前から受け取っていた」
セレナは背筋が冷えた。
二十年ではない。もっと長い。
「――何のためのものか、ご存じですか」
「知らん」ヘルマンは首を振った。「本当に知らん。焙って渡すだけだ。名前も、用途も、聞くなと言われている」
「渡す先は」
「別棟だ」
セレナは息を吐いた。
「ジョスラン様」
「今はな。前は先代だった」
部屋が静かになった。
ヘルマンは棚の方を見た。
「六年前、坊ちゃんの鼻が壊れたと聞いたとき、私は初めて怖くなった」低い声だった。「あれは何かの薬だと、うすうす思ってはいた。だが、坊ちゃんに使われるとは思わなかった」
「調べようとは」
「した」ヘルマンは言った。「一度だけ。医者崩れの男が私のところに来たとき、私は帳面を見せようとした。二十年分の受領記録だ」
「見せたのですか」
「見せる前に、あの男は河に浮いた」
セレナは膝の上で拳を握った。
「それ以来、私は忠告しかしない」男は言った。「忠告して、聞かせて、生かして帰す。それが私にできる全部だ」
「五十人を守るために」
「五十人と、その家族だ」ヘルマンは言った。「二百人はいる。私が組合を潰せば、その全員が食えなくなる」
セレナは、しばらく何も言わなかった。
この男は敵ではない。だが味方でもない。二十年、荷を受け取り続けた手が、いま目の前にある。
「ヘルマン様」
「なんだ」
「二十年分の受領記録は、まだありますか」
男の顔が上がった。
「――ある」
「見せてください」
「見せれば、私は殺される」
「見せなければ、私が殺されます」セレナは言った。「私は既に嗅ぎました。あなたが焙っていることも、荷が別棟に行くことも知っています。今日ここを出た時点で、私はあの医者崩れと同じ位置です」
ヘルマンが黙った。
「あなたは忠告して生かして帰すと言いました」セレナは続けた。「ですが、もう遅い。知ってしまった人間を生かす方法は、忠告ではありません」
「では何だ」
「勝たせることです」
丸眼鏡の奥の目が、大きく開いた。
セレナは立ち上がった。
「ヘルマン様。あなたは二十年、選ばずに済むように生きてこられた。受け取って、焙って、渡す。それだけなら誰も責められない」
「――そうだ」
「ですが、そのやり方は六年前に一度、破綻しています」彼女は言った。「あなたが選ばなかったから、一人死にました。次は私です。その次は、また誰かです」
部屋の中で、時計の音がした。
ヘルマンは長いこと動かなかった。
やがて、彼は棚の一番下に手を伸ばした。
古い帳面を引き出し、机に置く。埃が舞った。
「――これは渡さん」
「はい」
「だが、写しは取れる」男は言った。「私が書き写す。私の字で、私が写したものだ。原本を出さなければ、盗まれたことにはならん」
セレナは息を吸った。
「どれくらいかかりますか」
「二十年分だ。一月はかかる」
「十日でお願いします」
「無茶を言うな」
「十日で、あちらは動きます」セレナは言った。「私が今日ここに来たことは、日暮れまでに伝わります」
ヘルマンは帳面の表紙を撫でた。
それから、はじめて笑った。今度は、目も笑っていた。
「――君は、あの医者崩れとは違うな」
「違いますか」
「あれは、私を責めた」男は言った。「君は、私に仕事をさせた」




