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奪われた香りは、私のものです ~王家御用達の調香師見習いは、追われた辺境で自分の工房を持つことにした~  作者: やまご


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第十七話 匂いの立たない布

 リタに最初に教えたのは、火加減だった。

「炭は、赤くなったら強すぎる」

「赤いほうが熱いよ」

「熱すぎるの。香りは焦げると死ぬ」セレナは炉の前にしゃがんだ。「白く灰をかぶってから使う。手をかざして、我慢できるけど嫌だな、くらいが正しい」

 リタは手をかざして、すぐ引っ込めた。

「あつい」

「まだ強い。待つ」

 子どもは炉の前に座り込み、真剣に炭を睨んでいた。

 その間に、セレナは布を裁った。麻の粗い布を掌ほどの大きさに切り、四辺を縫う。中に乾いた植物を詰めて口を閉じる。露店でやっていたのと同じ、匂い袋だ。

 ただし今度は、売るための設計をした。

 一、効能を書かない。

 二、原料名を書かない。

 三、名前をつける。

 三つ目が肝心だった。名前があれば、それは薬でも香料でもなく、商品になる。

「これ、なんてなまえ?」リタが覗き込んだ。

「まだ決めてない」

「じゃあ、あたしがつけていい?」

「内容を知らないのに?」

「かいでからつける」

 セレナは袋を一つ渡した。リタは両手で持って、鼻を近づけ、それから顔をしかめた。

「すっぱい。あと、かたい」

「硬い、というのは」

「なんか、石みたいなにおいがちょっとする」

 セレナは目を上げた。

 中身は柑橘の並品と、乾いた根が少し。石のような匂いというのは――根の土の匂いだ。この子はそれを、味ではなく硬さで表現した。

「リタ」

「なに」

「あなた、たぶん相当いい鼻をしてる」

「ほんと?」

「本当。だから約束して。これから何を嗅ぐときも、必ず私に言ってから嗅ぐこと」

 子どもは首を傾げた。

「なんで」

「いい鼻の人ほど、危ないものを深く吸ってしまうから」

 リタは少し考えて、頷いた。


 匂い袋は、四日で八十個できた。

 売り先は坂の中腹の市場ではなく、河港の荷役の詰所にした。仕事終わりの男たちが集まる場所だ。

「なんだそりゃ」

「首に下げるものです。銅貨二枚」

「花か? 男が花なんぞ下げるかよ」

「花ではありません」セレナは袋を差し出した。「嗅いでみてください」

 荷役頭が鼻を近づけ、それから怪訝な顔をした。

「――ほとんど匂わねえな」

「はい。他人には匂いません」

「じゃあ何のためだ」

「あなた自身が動いたときだけ、少し立ちます」セレナは言った。「体温と汗で温まると出る配合です。荷を担いで、息が上がったときに、自分にだけ柑橘の匂いがする」

 男は袋を握りしめ、しばらく黙った。

「……なんでそんなもん作った」

「湿った麻と汗の匂いは、鼻の奥に溜まります」セレナは言った。「溜まると、疲れが取れにくくなる。上から別の匂いを被せても駄目です。ですが、自分の呼吸の中に一本だけ別の線を通すと、頭が切り替わります」

「それ、効くって言ってるのと同じじゃねえのか」

「言っていません」セレナは真顔で言った。「気のせいかもしれません」

 詰所に笑いが起きた。

 その日、四十個売れた。

 三日後には注文が来た。荷役の女房たちが、亭主のを見て自分の分を欲しがったのだという。


 商売の形が見えてきた頃、ヘルマンが染物屋に来た。

 昼過ぎだった。丸眼鏡の男は路地の入口で立ち止まり、看板のない戸口をしばらく眺めてから、中を覗いた。

「ここが、噂の工房かね」

 セレナは炉の前から立ち上がった。

 リタが素早く彼女の背後に回った。教えたわけではない。子どもの本能だった。

「アルシェ香料薬種組合のヘルマンだ」男は帽子を取った。「理事長をしている」

「セレナと申します」

「知っているよ。アーデンフェルト商会の目利きだろう」ヘルマンは土間に一歩入った。「河港で妙なものを売っていると聞いてね」

「妙、でしょうか」

「香料を売っている」

「売っておりません」セレナは机の上の袋を指した。「布を売っています」

 ヘルマンは袋を手に取った。丁寧な手つきだった。この人は品物の扱いを知っている、とセレナは思った。

 彼は嗅ぎ、目を細め、それからもう一度嗅いだ。

「――なるほど。開けてもいいかね」

「どうぞ」

 男は口を解き、中身を掌に出した。乾いた柑橘の皮と、根の欠片。

「並品だ」

「はい」

「並品を、こういう形で売る」ヘルマンは中身を袋に戻した。「効能は謳っていないのだろう」

「一切」

「原料名も書いていない」

「はい」

「上手いね」男は袋を机に置いた。「組合の管轄をきれいに外している。ぎりぎり外だ。私が咎める根拠はない」

「そのように作りました」

 ヘルマンは笑った。丸眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。

「王都の出だそうだね」

「はい」

「登録は」

「ございません」

「抹消されたと聞いた」

 セレナは表情を変えなかった。

 ――もう調べている。申請も出していないのに。

「あちらの組合の判断です」

「理由は素行だとか」ヘルマンは帽子を弄んだ。「あれは便利な言葉だ。何も説明しなくていい」

「そう思います」

「私はね、あの書き方が嫌いでね」男は言った。「理由を書けない処分は、処分した側に理由がないことが多い」

 セレナは、はじめてこの男の顔をまともに見た。

 好意的な言葉だ。だが好意的な言葉ほど、値踏みの道具になる。

「ご用件を伺っても」

「二つある」ヘルマンは指を立てた。「一つ。うちの組合に入りなさい」

「――お誘いですか」

「勧告に近い」彼は言った。「君は今、法には触れていない。だが、街の商人というのは法だけで動いていない。組合に属さない人間が売り上げを伸ばすと、必ず誰かが潰しに来る。うちに入っていれば、私が止められる」

「入らなければ」

「私は止められない」

 簡潔な脅しだった。丁寧すぎるほど。

「二つ目は」

 ヘルマンは帽子をかぶり直した。

「アーデンフェルト商会の目利きを、辞めなさい」

 土間の空気が変わった。

 背後で、リタが息を呑むのがわかった。

「理由を伺っても」

「あの商会は、じきに揉める」ヘルマンは言った。「当主と、南方交易の間でね。私は十二年この街で組合をやっている。揉める前には匂いがするんだ」

「匂い、ですか」

「君ほどではないがね」男は微笑んだ。「揉め事の中に立っている人間は、どちらが勝っても最初に切られる。特に、外から来て一年経っていない人間は」

「ご忠告ですか」

「忠告だ」ヘルマンは戸口に向かった。「もっとも、聞かないだろうね。君のような顔をした人間は、六年前にも見た」

 セレナは息を止めた。

 男は戸口で振り返らなかった。

「あのときは医者崩れだった。正義感が強くてね。私は同じことを言った」

「――彼はどうなりましたか」

「河に浮いた」

 ヘルマンは路地に出て、それから初めて振り返った。

「私は忠告をする。それだけだ。それ以上のことはしない。それ以上のことをする人間が、この街にはいる」

 彼は帽子の縁に指をあて、坂を登っていった。


 戸が閉まると、リタがセレナの袖を掴んだ。

「あのひと、いやなにおいした」

 セレナは子どもの手を握った。

「どんな」

「わかんない。……なんか、あついにおい」

「熱い」

「炭のとこにいたみたいな」

 セレナは目を上げた。

 組合の建物には、樽六つが運び込まれている。

 焙る技術が要る、とあの女は言った。灰華は焙らなければ出ない。

 ――焙っている場所が、組合の中にある。

「リタ」セレナはしゃがんで、子どもと目を合わせた。「今の、よく言えたわね。すごく大事なことを教えてくれた」

「ほんと?」

「本当。銅貨五枚分」

 子どもの顔が明るくなった。

 セレナは立ち上がり、机の上の紙を見た。

 『黎明』の配合と、ヴィオラの十四本。二つの未完成な香。

 その隣に、彼女は三本目の線を引いた。

 ――組合。理事長ヘルマン。荷の受領者。炭の匂い。忠告者。

 そして、そのすぐ下に一行足した。

 ――六年前、医者崩れにも同じ忠告をした人間。

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