第十六話 樽は六つ
夜明け前の河港は、濃い霧だった。
セレナは荷役の上着を借りて、髪を布で包んでいた。麻袋をひとつ肩に担いでいる。中身は空だ。手ぶらの人間は目立つが、荷を担いだ人間は誰も見ない。
南の三番桟橋は、板が黒く湿っていた。
川船が一艘、もう着いていた。喫水が浅い。艫に灯が一つだけ点いている。
セレナは桟橋の根元、積み上げられた空樽の陰に麻袋を下ろした。しゃがんで、袋の口を結び直す仕草をしながら、目だけを上げる。
荷役が四人。船から樽を降ろしている。
一つ、二つ、三つ。
樽は小さかった。人が一人で抱えられる大きさだ。中身が重い樽の運び方ではない。腰を落とさず、腕だけで受け渡している。
四つ。五つ。
六つ目で止まった。
――六つ。
セレナは息を殺した。リタが聞いたのは、四つか六つ。今日は六つだ。
荷役たちは樽を桟橋の板の上に並べ、それから待った。運び出さない。
誰かを待っている。
霧の中を、坂の方から荷車が一台降りてきた。引いているのは馬ではなく、人だった。二人がかりで梶棒を持っている。
荷車が桟橋に着けられ、樽が積まれていく。
セレナは車の造りを見た。
――商会の車ではない。
商会の荷車は、荷台の側板に焼き印がある。錨と麦の意匠だ。この車の側板は無地だった。だが車輪の鉄輪の減り方が均一で、手入れが行き届いている。個人の車ではない。どこかの組織が毎日使っている車だ。
六つ積み終わると、荷車は坂を登り始めた。
セレナは麻袋を担ぎ直し、五十歩ほど離れてついていった。
坂の中腹で、荷車は右に折れた。
商会の方向ではない。
路地に入り、二度曲がり、石造りの低い建物の前で止まった。
セレナは角で足を止め、袋を下ろして紐を結び直すふりをした。
建物には看板が出ていた。
――アルシェ香料薬種組合。
彼女は、自分の指が止まったのがわかった。
組合だ。
ラウルが、保証人になって登録を通すと言っていた、あの組合。
荷車の男たちが戸を叩き、中から人が出てきた。灯を持っている。年配の男だった。頭が薄く、丸眼鏡をかけている。彼は樽を一つ一つ確かめ、それから帳面に何か書きつけた。
樽は建物の中へ運び込まれた。
六つ全部。
戸が閉まった。
セレナは坂を下りながら、頭の中を整理した。
南から来た荷が、商会ではなく組合に入った。
組合は、その荷を帳面に記録している。記録している、ということは、後ろ暗い荷という扱いではないということだ。堂々と受け取っている。
――なら、そもそも不正ではないのか。
いや、と彼女は思い直した。
商会の帳簿には「甘松・二箱・銀貨三枚」と書かれていた。中身が樽六つなら、箱二つとは合わない。数量が合わないものを、組合が正規に受け取っている。
どちらかが嘘をついている。
あるいは、両方が同じ嘘の別の面を書いている。
北の一番桟橋に着いたとき、ラウルは荷検めの台の前に立っていた。
商会の荷役が十人ほど動いている。当主が自分で立ち会っているので、みな緊張していた。
セレナは荷役の列に紛れて近づき、台の脇に麻袋を置いた。
「六つです」
ラウルは帳面から目を離さずに言った。
「行き先は」
「組合です」
彼の手が、はっきりと止まった。
「――組合」
「アルシェ香料薬種組合。看板を確認しました。丸眼鏡の年配の男が受け取って、帳面に記録しました」
ラウルは帳面を閉じた。顔色が変わっていた。
「その男は、ヘルマンだ」低い声だった。「組合の理事長を十二年やっている」
セレナは息を吸った。
「私の登録の保証人が通る先は」
「そこだ」
二人はしばらく黙っていた。
河から風が吹き上げてきて、霧が薄くなりはじめていた。
「ラウル様」セレナは言った。「登録の申請は、まだ出しておりませんね」
「昨日、弁務人が書面を作った。出すのは今日だ」
「止めてください」
「なぜだ」
「私が申請を出せば、ヘルマンという方は私の名前と経歴を全部読みます」セレナは言った。「王都で抹消された調香師が、この街で商会の保証を受けて登録を求めている。それだけで、私が何をしているか半分は伝わります」
ラウルは彼女を見た。
「登録がなければ、あんたは工房を開けん」
「開けます」セレナは言った。「香料を売らなければいい」
「何を売る」
「香りを売ります」
彼女は麻袋の紐を握った。
「露店でやっていたことと同じです。効能を謳わず、薬種として売らない。匂いのする布を売る。組合の管轄外です」
「――それで食えるのか」
「食えません。ですが、商会の目利きの給金があります」
ラウルは長く息を吐いた。
「あんた、自分の登録を捨てるのか」
「捨てません。後回しにするだけです」セレナは言った。「今それを取りに行けば、相手の懐に自分から手を突っ込むことになります」
彼は帳面を脇に抱えた。
「一つ、いいか」
「はい」
「あんたは王都で登録を奪われた。三月前だ」ラウルは言った。「取り戻せる機会が来て、それを自分から後ろに置いた。惜しくないのか」
セレナは、少しだけ考えた。
「惜しいです」
「なら」
「ですが」彼女は言った。「登録は、誰かにくれてやるものではありません。あちらから頭を下げて返しに来させるものです」
ラウルが、口の端を上げた。
「王都に返させる気か」
「いずれ」
その日の午後、セレナは染物屋に戻った。
久しぶりの土間は、石と水と樹脂の匂いがした。三月前に自分が作った匂いだ。
彼女は棚の一番奥から、小瓶を取り出した。
柑橘の油。三月前、蒸留してそのまま置いたもの。
栓を抜き、嗅ぐ。
悪くなっていなかった。むしろ、角が取れて丸くなっている。
セレナは机に紙を広げ、思い出せる限りの配合を書き出した。
『黎明』。柑橘、乳香、蜂蜜。三年かけた比率。
書きながら、指が止まった。
――使うつもりはない。
だがいま、この街で自分が持っている武器を数えると、これが一番大きかった。
ミレイユが再現できていない香。王都の工房が原料を投げ売りするほど、行き詰まっている香。
そして。
セレナは紙の余白に、もう一行書いた。
――ヴィオラの十四本。
母の匣の番号で組まれた、他人の試作。あれもまた、彼女の手元にある。
二つの未完成な香が、いま同じ机の上にある。
どちらも、まだ誰のものにもなっていない。
セレナは筆を置き、窓の外を見た。
路地の入口に、リタが座っていた。新しい靴の紐を、何度も結び直している。
「セレナ」子どもが顔を上げた。「ここ、また使うの?」
「使うわ」
「においのやつ、作る?」
「作る」
リタは立ち上がって、土間に入ってきた。
「あたし、なにする」
「炭を熾して」セレナは言った。「今日から、あなたに仕事を教える」




