第十五話 メルダ号
リタが帰ってきたのは、四日目の夕方だった。
子どもは階段を三段飛ばしで駆け上がってきて、物置の戸を開けるなり息を切らせた。
「セレナ」
「走らないの」
「メルダ、あった」
セレナは筆を置いた。
「座って。息を整えて。それから、聞いた通りに言って」
リタは木箱に腰を下ろし、両手を膝に置いた。深呼吸を三回した。教えた通りだった。
「南の桟橋。三番のとこ。荷役のおじさんたちが話してた」子どもは指を折った。「メルダは来月の頭だって。あと、いつもの場所でいいのかって、ひとりが言って、もうひとりが、いつも通りだって言った」
「いつもの場所」
「うん」
「それだけ?」
「あと、樽って言ってた」リタは眉を寄せた。「樽が四つとか、六つとか。数がよくわかんなかった。おじさんたち、笑ってたから」
セレナは書き取った。
――メルダ号、来月頭。南桟橋三番。いつもの場所。樽、四つか六つ。
「よくやったわ」
「もっと聞く?」
「もう行かないで」セレナは首を振った。「一度で足りた。二度行くと顔を覚えられる」
子どもは少し不満そうにしたが、頷いた。
「銅貨、もらえる?」
「三日分ね」
セレナは九枚数えて渡した。リタは手のひらの上でそれを並べ直し、しばらく眺めてから、握りしめた。
「これ、貯めていい?」
「何に使うの」
「くつ」
セレナは、子どもの素足を見た。
それから、余分に三枚足した。
「これは、走った分」
その夜、事務室でセレナは報告した。
ラウルは地図を広げた。河港の見取り図だった。桟橋が北から順に番号を振られている。
「南の三番」彼は指を置いた。「うちの荷は北の一番と二番だ。三番は小型船の泊まりだ。近距離の川船が多い」
「南方から来る船が、川船の桟橋に着けるものですか」
「着けない」ラウルは言った。「メルダが南方船なら、河口で積み替えている」
「積み替え」
「河口に中洲がある。喫水の深い船はそこまでしか上がれん。そこで川船に積み替えて、街まで運ぶ」彼は地図の下端を指した。「積み替えの記録は、中洲の管理小屋で取る。だが小屋を管理しているのは街の管理所じゃない」
「では」
「河口一帯は、領主の直轄だ」ラウルは顔を上げた。「つまり俺の管轄だが――実務は代々、別棟が見ている」
セレナは息を吐いた。
「記録は、あてになりませんね」
「ならん」
「では、荷そのものを見るしかありません」
ラウルの目が動いた。
「来月の頭だな」
「はい」
「十日ある」
彼は地図を巻き上げた。
「その十日で、こちらの準備を全部済ませる」
準備は三つに分かれた。
一つ目は、セレナの工房だった。
「染物屋を本格的に使え」ラウルが言った。「あそこは商会の名義だが、名目を変える。賃借の証文を作って、あんたを借り主にする」
「なぜ今それを」
「あんたが商会の中にしか居場所がないと、商会の外で動けん」彼は言った。「それに、もし俺が動けなくなったとき、あんたが商会の人間だと全部が止まる」
セレナは彼を見た。
「動けなくなる想定を、しておられるのですか」
「商人だからな。船が沈む前提で荷を分ける」
証文はその日のうちに作られた。家賃は年に銀貨二枚。相場の三分の一だったが、セレナは値切らなかった。値切れば施しになる。
「もう一つ」ラウルは言った。「あんたの名前で、組合に登録を出せ」
「登録は抹消されています」
「王都の組合がな」彼は言った。「アルシェには別の組合がある。小さい。香料と薬種が一緒くたの、五十人ほどの寄り合いだ」
「王都の抹消歴があると、通りません」
「通す」ラウルは言った。「うちが保証人になる」
セレナは黙った。
「不服か」
「――違います」
彼女は自分の手を見た。藍で染まって、まだ落ちきらない指だ。
登録。三月前に奪われたものが、ここでは商会の一筆で戻る。それが嬉しいのか腹立たしいのか、自分でも判別がつかなかった。
「ひとつ、伺っても」
「言え」
「なぜ、そこまでしてくださるのですか」
ラウルは帳簿の山を見て、それからセレナを見た。
「三日で二十二冊読み終えたからだ」
「それだけですか」
「六年ぶりに、俺は自分の頭で戦った」彼は言った。「あんたが持ってきた品物の知識と、俺の数字が噛み合った。あの三日で、俺は目利きに騙される男から、目利きと組む男になった」
彼は椅子の背にもたれた。
「値をつけるなら、そこだ」
二つ目の準備は、灰華そのものだった。
セレナは桟橋の下の小屋には行かなかった。一度だけ、と言われている。
代わりに、彼女は借りた銀貨一枚分の灰華を、染物屋の炉で少しずつ焼いた。
布で口と鼻を覆い、窓を開け放ち、風上に立つ。ひとつまみを八つに分け、一つずつ条件を変えた。
直火。遠火。湯気にあてる。油に落とす。乾いたまま砕く。
わかったことが三つあった。
一つ、灰華は熱を通さないと出ない。生のままでは、ほとんど何も起きない。
二つ、油に落とすと、白い粉が浮かずに溶ける。溶けたものは匂いが薄い。
三つ、溶かしたものを乾いた植物に吸わせると、匂いも色もほとんど消える。
――柑橘の皮だ。
セレナは実験の三つ目を、市場の並品の皮でやってみた。皮に灰華の油を吸わせ、乾かす。
乾いた皮を嗅ぐ。
何もない。上等な柑橘の匂いしかしない。
彼女は布越しにその皮をひとかけ、湯に落とした。
湯気が上がった。
冷たい後味が、布の隙間から、舌の奥に触れた。
セレナは即座に窓から離れ、外に出て、河の風を吸った。
――ここまで消せるのか。
六年間、誰も気づかなかった理由がわかった。ネリは何も混ぜていない。上等な柑橘の皮を、丁寧に削って鍋に入れていただけだ。皮そのものが、そう作られていた。
三つ目の準備は、書面だった。
ラウルは商会の弁務人を呼び、公証を三通作らせた。
一通目は、セレナへの賃借証文。
二通目は、商会の名義でセレナが行った検分の記録。過去一月分の判定を全部、日付入りで文書化した。
「なぜこれを」セレナは訊いた。
「あんたの仕事の実績だ」ラウルは言った。「もし何かあって、あんたが商会と繋がっていないことにされたら困る。逆も同じだ。あんたが商会を騙して入り込んだと言われても困る」
三通目は、封をされていた。
「これは」
「開けるな」ラウルは言った。「弁務人と俺と、もう一人が写しを持っている。俺が死んだら開く」
セレナは封筒を見た。
「――ラウル様」
「縁起の悪い話をしていると思うか」
「思います」
「六年前に二人死んでいる」彼は淡々と言った。「片方は俺の恩人だった。商人だ。街を出たと言われているが、俺は今でも生きているとは思っていない」
十日目の夜、セレナは物置の窓辺に座っていた。
河港の灯が、水の上で揺れている。リタは眠っていた。枕元に、買ったばかりの靴が揃えて置いてある。市場の中古で、少し大きい。子どもは寝る前に三度、履いて見せた。
セレナは膝を抱えた。
三月前、王都の門を出たとき、腕の中にあったのは処分品の木箱ひとつだった。
今、自分には工房がある。登録が通る目処がある。仕事がある。
――そして、この街の交易の上に立つ男を、正面から敵に回している。
怖くないわけがなかった。
だが、腹の底にあるものは恐怖ではなかった。もっと乾いた、作業に近い熱だ。
腐った木を替える。腐ったものを出す。床を焼く。
全部やらないと、戻る。
扉が軽く叩かれた。
「起きているか」
ラウルだった。手に灯を持っている。
「明日、船が入る」
「はい」
「あんたは行くな、と言っても行くんだろうな」
「行きます」
「そう言うと思った」
彼は灯を戸口の床に置いた。
「北の一番桟橋に、うちの荷が同じ日に入る。俺はそっちに出る。当主が自分の荷を検めるのは自然だ」
「私は南の三番へ」
「顔を隠せ。荷役の格好をしろ」ラウルは言った。「それから、樽を開けるな」
「開けなければ中身がわかりません」
「開けた瞬間に終わる」彼は言った。「見るだけだ。何樽入って、どこへ運ばれたか。それだけ見て帰れ」
セレナは頷いた。
「――ラウル様」
「なんだ」
「湯気の匂いは、まだしますか」
ラウルは灯の炎を見た。
「今朝、雨の匂いがした」
彼はそう言って、少しだけ笑った。六年ぶりに何かを取り戻した人間の、不器用な笑い方だった。
「二十年ぶりくらいの気分だ」




