第十四話 合わない行
帳簿は、六年で二十二冊あった。
事務室の床に積み上げると、膝の高さになった。ラウルは長卓を窓辺に引き出し、そこに三冊ずつ広げた。セレナは向かいに座り、紙と筆を置いた。
「やり方を決める」ラウルが言った。「俺が一行読む。品名、産地、数量、単価、船名だ。あんたは品物として妥当かどうかだけ言え。妥当なら流す。妙なら止める」
「わかりました」
「一日で終わると思うな。二十二冊だ」
「三日で終わらせます」
ラウルが顔を上げた。
「根拠は」
「六年前の秋から見ます」セレナは言った。「灰華が最初に入った時期です。そこから半年を精読して、あとは同じ形の行だけ拾います」
「同じ形」
「不正には癖が出ます」彼女は言った。「王都の工房で、仕入れ帳を三年つけていました。ごまかす人は、毎回同じところをごまかします」
最初の半日で、二十七行が引っかかった。
うち二十四行は、ただの記帳の粗さだった。産地の書き漏れ、船名の略記。
三行が残った。
「六年前の九の月」ラウルが読んだ。「品名、香料雑。産地、南方。数量、三箱。単価、銀貨四枚。船はカルネア号」
「香料雑、が引っかかります」セレナは言った。「雑という書き方は、安物をまとめて買ったときに使います。ですが銀貨四枚は高すぎる。安物三箱なら銀貨一枚以下です」
「高い雑、か」
「はい。それと、この帳簿には他に雑という記載が」
「――ない」ラウルが頁を繰った。「六年分で、この三行だけだ」
セレナは筆を走らせた。
「三行の日付は」
「九の月の十一日。十の月の二日。十一の月の――」ラウルの声が止まった。
セレナは顔を上げた。
「何日ですか」
「六日だ」
部屋が静かになった。
ヴィオラが兄に瓶を渡したのは、十一の月。棚の札は十一の月で途切れていた。
「妹さんが倒れたのは」
「十一の月の九日だ」
三日前。
三箱目が入った三日後に、ヴィオラは香を完成させ、兄に嗅がせ、倒れた。
セレナは筆を置いた。
「ラウル様。ひとつ、確かめたいことがあります」
「言え」
「妹さんは、この三箱の中身を、どうやって手に入れたのでしょうか」
ラウルの手が止まった。
「――叔父から、だな」
「そうだと思います。ですが、なぜ渡したのでしょう」
「妹に香を作らせるためだ」
「そこです」セレナは言った。「なぜ、妹さんに作らせる必要があったのでしょう」
彼女は卓の上に指を三本置いた。
「一つ。灰華をあなたに吸わせるだけなら、食事に混ぜればいい。実際、六年間そうしてきました。妹さんは要りません」
「そうだな」
「二つ。それでも六年前だけは、妹さんが作った香をあなたに嗅がせています。わざわざそうした」
「――理由が要る」
「はい」セレナは三本目の指を折った。「三つ。その結果、妹さんは自分のせいだと思い込みました。六年間、香に触れず、領地から出ず、同じ手紙を書き続けています」
ラウルの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「妹を、黙らせるためか」
「私はそう考えます」
彼は立ち上がりかけて、椅子に座り直した。両手を卓について、しばらく息をしていた。
「――なぜ黙らせる必要がある」
「妹さんが、母方の家の香を継ぐ立場だったからではないでしょうか」
セレナは慎重に言葉を選んだ。
「母の匣、と札にありました。名前のない香料が番号で並んだ匣です。ヴィオラ様は、その匣の中身を知っている。何番が何かを、六年前の時点で覚えていた」
「灰華の番号も、か」
「知らずに使ったのだと思います」セレナは言った。「ですが、あの方は自分が何を配合したかを記録に残しています。もし今、記憶が戻って口を開いたら、匣の何番が兄の鼻を壊したかを言えてしまう」
ラウルの目が動いた。
「言えたら、どうなる」
「その番号を、誰が匣から出したかが問題になります」
彼は長く息を吐いた。
「――叔父が渡したことになるな」
「はい」
二日目、四行目が見つかった。
四年前の帳簿だ。品名は香料雑ではなかった。「甘松・南方・二箱・銀貨三枚」と書かれている。
「甘松にしては安すぎます」セレナは言った。「二箱で銀貨三枚なら、並品以下です。ですが、この年の甘松の相場は上がっています。南の不作で」
「なぜ知っている」
「王都で仕入れをしていましたから」彼女は言った。「四年前、甘松は例年の一・五倍でした。工房の帳面が赤くなって、師匠に叱られたので覚えています」
ラウルが頁を繰る手が速くなった。
「同じ形が、ある」
「読んでください」
「三年前、甘松・南方・二箱・銀貨三枚。二年前、同じ。去年、同じ」
「毎年、同じ品名、同じ数量、同じ値」
「相場が動いても値が動かない」ラウルの声が低くなった。「これは仕入れじゃない」
「はい」セレナは言った。「値段が動かない取引は、品物ではなく約束です」
彼は帳簿を閉じた。
窓の外で、船の鐘が鳴っていた。
「船名は」
「四年前から全部、同じです」セレナは自分の書き取りを見た。「メルダ号」
「――知らん船だ」
「商会の船ではないのですか」
「うちの船は七隻ある。全部覚えている」ラウルは言った。「メルダなんて名前はない」
セレナは筆を置いた。
「では、その船を調べれば」
「港の入出港記録がある」ラウルは立ち上がった。「河港の管理所だ。俺が行く」
「おやめください」
「またか」
「当主が入出港記録を見に行けば、その日のうちに別棟へ伝わります」セレナは言った。「そこは私が行きます」
「あんたは目立つ」
「目立ちません」
セレナは戸口を振り返った。
物置の扉が細く開いていて、そこから小さな顔がのぞいていた。
「リタ」
「聞いてない」子どもが即座に言った。
「聞いてたわね」
「ちょっとだけ」
セレナは手招きした。リタは素足で入ってきて、卓の高さに顎を乗せた。
「船の名前を、覚えられる?」
「うん」
「港で、荷役の人たちが話しているのを聞いて、メルダという名前が出たら教えて。それだけ」
ラウルが眉をひそめた。
「子どもを使うのか」
「港に子どもがいて、誰か気にしますか」セレナは言った。「私が行けば、商会の目利きが記録を見に来たと三日で街中に伝わります。この子なら、誰も見ません」
「危険だろう」
「危険なのは、名前を訊いて回ることです」セレナはリタを見た。「訊いてはだめよ。聞くだけ。誰かに何か訊かれたら、お使いだと言って走って帰る。約束できる?」
リタは真剣な顔で頷いた。
「約束する」
「約束したら、守る子だけがここで働ける」
「守る」
セレナは子どもの頭に手を置いた。それから、ラウルを見上げた。
「日に銅貨三枚、この子に払ってください。商会の経費で」
「――子どもに金を払えと」
「仕事をさせるからです」セレナは言った。「無償で使えば、私はこの子に借りができます」
ラウルが、短く笑った。
「あんた、俺の言葉を使うな」
「よい言葉でしたので」
三日目の夜、二十二冊を読み終えた。
合わない行は、全部で十一。六年前の三行と、四年前からの八行。前半と後半で形が違う。
前半は「香料雑」。中身を書かずに高く払っている。
後半は「甘松」。名前を借りて、値を固定している。
途中に、二年分の空白があった。五年前と六年前の後半。この二年だけ、怪しい行が一つもない。
「なぜ空くんだ」ラウルが言った。
セレナは帳簿の日付を眺めていた。
「五年前に、何かありましたか」
「――親父が寝ついた」ラウルは言った。「四年前に死んだが、その前の年から動けなくなった」
セレナは筆を落としそうになった。
「では、その前は」
「親父が商会を握っていた」
当主が動けなくなった年から、怪しい行が復活する。
つまり、六年前の三行は、父の目の届くところで行われた。
そして父が寝ついたあと、二年の空白を置いて、別の形で再開した。
「ラウル様」セレナは言った。「六年前、あなたのお父様は、これをご存じだったのでしょうか」
ラウルは答えなかった。
彼は帳簿の背を指でなぞって、それからひとこと、絞り出すように言った。
「――親父は、俺の鼻のことを、一度も調べなかった」




