教典という名のマニュアル
焚き火を挟んで、俺はさっき見たものを、できるだけ正確にライラスへ伝えた。
輪郭の定まらない敵。動作解析ログの機能不全。深層解析で見えた「スポーン処理未完了」という表示。そして最後に見た、あの一文。
「――『この区画は開発者用の一時領域です。一般権限でのアクセスは推奨されません』、か」
ライラスは繰り返すように呟くと、しばらく黙り込んだ。焚き火の炎が、彼の皺だらけの顔に、揺れる陰影を落としている。
「爺さん、何か知ってるのか」
「知ってる、というほどじゃない。ただ――今の話を聞いて、思い出したことがある」
ライラスは杖代わりの木の枝で、地面に何かの図形を描き始めた。それは、俺が大聖堂で見た「鑑定の儀」の魔法陣に、どこか似ている気がした。
「ワシは鑑定士だった、と言ったろう。鑑定士になるには、教典を頭に叩き込む修行がいる。何百とある聖句を、一字一句違えず暗唱できて、初めて一人前だ」
「それが、どうかしたのか」
「今の坊主の話を聞いて、ふと引っかかった一節がある。……昔から、意味の通らない、変な言い回しだと思っていた箇所だ」
ライラスは、記憶をなぞるように、ゆっくりと口にした。
「『許可なくして、視るなかれ。視ることを許されたる者のみ、真実を鑑定せよ。鑑定の権能は、権限ある者にのみ与えられる』――教典の、鑑定条にある一節だ」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「――権限、許可、権能」
俺は思わず、その単語だけを拾って繰り返していた。
あの亀裂の向こうで見た文字列と、驚くほど響きが似ている。「一般権限でのアクセスは推奨されません」。「視ることを許されたる者のみ」。まるで、同じ言葉を、別々の言語に無理やり翻訳したみたいだった。
「爺さん。それ、偶然だと思うか」
「思わんね。ワシも、今初めて繋がった」
ライラスは地面の図形に、新しく一本、線を書き足した。
「教典ってのはな、坊主。教国の言い分じゃ、世界を創った御方――『創世の御方』とやらが、初めてこの世に降りたときに残した言葉、ってことになってる。だが、御方が実際に何を伝えようとしたのか、その真意は誰も知らん。何百年も前から、聖職者たちが解釈に解釈を重ねて、今の教義を作り上げてきた」
「解釈に、解釈を重ねて……」
「もし――もしだぞ。その『創世の御方』とやらが遺した本当の言葉が、坊主の見た『開発者』とやらと同じものだったとしたら」
ライラスは、めずらしく真剣な目で俺を見た。
「教国が何百年も後生大事に守ってきた教義ってのは、本来はもっと簡単な、ただの『説明書』だったのかもしれん。それを、意味も分からんまま神格化して、儀式にして、権威にして……気づけば、それが世界を統べる宗教になっちまった、とか」
その仮説は、あまりにも突飛だった。だが、突飛だからこそ、妙に腑に落ちる部分もあった。
(『鑑定の儀』は、権限を持つ者だけが「視る」ことを許された儀式――だとしたら)
俺は思わず、拳を握りしめていた。
あの日、大聖堂で下された「オールステータス10」という判定。あれは本当に、俺の価値を見抜いた「神聖な儀式」の結果だったのか。それとも、ただの――
(――ただの、認証エラーだったんじゃないのか)
「爺さん、もっと詳しく知りたい」
「そう言うと思ったよ」
ライラスは、にやりと笑って、地面の図形をさらに描き足した。
「教典の中に、もう一つ気になる伝承がある。『初めの土地』――この奈落のどこかに、まだ何も生まれ切っていない、空っぽの土地があるって話だ。地図にも残ってない、噂だけの場所だがね」
「初期化されてない、ってことか」
「言い方は知らんが、坊主の言葉を借りるなら、多分そういうことだろう。ワシは長年、そんな与太話だと思って近づいたこともなかった。だが――今の話を聞いた後じゃ、話は別だ」
ライラスは地面の図を指でなぞり、一点を示した。
「そこに行けば、坊主が見たあの一文の続きが、もっとはっきり分かるかもしれん」
俺は焚き火の向こうの老人を見つめ、それから小さく頷いた。
「行こう、爺さん」
「気の早いこった。……まあいい。準備ができ次第、案内してやるよ」
夜の森に、二人分の息遣いだけが、静かに続いていた。




