修復者
迷っている暇はなかった。
脇腹の傷が焼けるように痛む。次の一撃をまともに食らえば、今度こそ立っていられなくなる。俺は覚悟を決めて、意識を沈めた。
(――クロックダウン)
頭の芯に、ガラスの割れるような痛みが走る。それでも構わず、俺は世界の速度を引き下げた。
粘度を増した空間の中で、輪郭の揺れる人影が、ゆっくりと――本当にゆっくりと、こちらへ腕を伸ばしてくる。
だが、見えた。
クロックダウンの中でなお、そいつの当たり判定はやはり定まらない。輪郭が数センチ単位で明滅し、実体と虚像が重なったり離れたりを繰り返している。まるで、描画処理が追いついていないみたいに。
(――待てよ。追いついてない、んじゃないか)
直感が閃いた。動作解析ログの解像度を上げるように、意識をさらに深く沈み込ませる。今まで「###ERR###」としか表示されなかった鑑定結果の奥に、もう一段階、細かい情報が滲むように浮かび上がってきた。
[ 深層解析:スポーン処理未完了を検出 ]
[ 個体データ:内部に不整合あり(描画リソース欠損) ]
(スポーン処理、未完了……こいつ、ちゃんと生まれ切ってない、ってことか)
その瞬間、目の前の存在が急に、恐ろしいものではなく、ひどく哀れなものに見えてきた。輪郭が定まらないのも、当たり判定が噛み合わないのも、こいつが規格外に強いからじゃない。ただ、システムに正しく読み込まれないまま、無理やり存在させられているだけだ。
だとしたら――やるべきことは、破壊じゃない。
俺は、地形コライダーを書き換えたときと同じ感覚を、目の前の「不完全な個体」そのものに向けた。ただし今回は、消すためじゃない。
(――もう一回、ちゃんと読み込み直せ)
[ 対象への再検証コマンドを送信 ]
[ スポーンデータの整合性チェックを開始... ]
輪郭の揺れが、一段と激しくなった。まるで悲鳴を上げるように、実体と虚像が高速で明滅を繰り返す。
俺は歯を食いしばり、意識を逸らさなかった。
[ 整合性チェック:失敗 ]
[ 無効なスポーンデータと判定 ⇒ 自動破棄 ]
声もなく、輪郭は淡い光の粒になって、そのまま夜霧の中に溶けていった。
断末魔も、勝利の実感もなかった。ただ、そこにあった歪みが、静かに「正しい状態」へ戻されただけ、という感触だけが残った。
クロックダウンを解除する。頭痛と虚脱感が押し寄せてきたが、さっきほどではない。今回は、長々と使い続けたわけじゃないからだろう。
俺はしばらく、その場に座り込んで呼吸を整えた。
(――こいつも、もしかしたら)
脳裏をよぎったのは、自分自身のことだった。「オールステータス10」という、あの惨めな鑑定結果。もしあれが、本当は正しく読み込まれなかっただけの、不完全なデータだったとしたら。
答えは出ない。今はまだ、材料が足りなすぎる。
それより気になったのは、視界の端に、まだ小さな違和感が残っていることだった。さっきの個体が消えた場所の空間に、薄い亀裂のようなものが浮かんでいる。
俺は警戒しながら、そこに意識を向けた。
[ 未分類の残留データを検出 ]
[ アクセス試行... ]
[ WARNING:この区画は開発者用の一時領域です ]
[ 一般権限でのアクセスは推奨されません ]
息が止まった。
開発者用。一般権限。
この世界がプログラムだということは、もう嫌というほど思い知らされている。だが、目の前に表示されたその文字列は、それとはまた別種の重みを持っていた。
――この世界には、俺のような「バグを利用する側」の存在だけじゃなく、そもそもこの世界そのものを「作っている側」の痕跡が、確かに残っている。
(一般権限、って言い方をするなら……上には、もっと別の権限がある、ってことだ)
その先に何があるのか、今の俺には想像もつかない。だが、少なくとも一つだけ、確信めいたものが胸の中に生まれていた。
このデバッガーという力は、石を置いてスタンを誘発する、地形を消して敵を落とす――そんな小手先の悪戯だけで終わるものじゃない。
もっと奥がある。もっと深いところに、この世界そのものに手を触れられるだけの、何かがある。
亀裂はやがて、何事もなかったかのように閉じていった。俺はしばらくそれを見つめてから、重い体を引きずるようにして、来た道を戻り始めた。
焚き火の匂いが近づいてくる頃には、脇腹の血もようやく止まっていた。
「――おいおい、坊主。今度は何をやらかした面してんだ」
ライラスの呆れたような声に、俺は思わず苦笑いを返す。
「爺さん、また世話になる。……それと、ちょっと聞きたいことができた」
「なんだい」
「この世界を作ってる奴らって、あんた、心当たりあるか」
ライラスは目を丸くして、それから盛大に噴き出した。
「そりゃまた、随分と大きく出たな坊主。……面白い。今夜は寝かさんぞ、その話、詳しく聞かせてもらう」
焚き火が、パチリと爆ぜた。




