借りではなく
アナスタシアが目を覚ましたのは、日が傾き始めた頃だった。
俺は焚き火の傍で、濡らした布を絞り直しているところだった。外套の上に投げ出された彼女の指が、不意にぴくりと動いた。
睫毛が震える。ゆっくりと持ち上がった瞼の下で、焦点の合わない目が、梢の隙間を彷徨っていた。
「……ここ、は」
ひどく掠れた声だった。
「いつもの場所だ」
「……水を」
頭の下に手を入れて、少し起こした。椀を口元に運ぶと、彼女は何度か咽せながら、最後まで飲み干した。
それから、指が外套の上でわずかに浮いた。椀を受け取ろうとしたのだと思う。だが指は一寸ほど持ち上がっただけで、力なく落ちた。
彼女の目が、自分の手を見つめた。
「……見るな」
「見てない」
「嘘をつけ」
口だけは達者だった。それが可笑しくて、同時に、肩の力が抜けた。
薪を抱えたライラスが、ちょうど戻ってきたところだった。
「起きたか、嬢ちゃん」
「私は……死んだものと、思っていた」
「死にかけただけだ。坊主が、毒を止めた」
「止めた? あれは、お前の力でも、どうにもならないと」
アナスタシアの視線が、俺に向く。
誤魔化すつもりは、最初からなかった。こういうことは、あとから知られる方が厄介だ。
「ならなかった。だから、別のやり方をした」
俺は、順番に話した。毒は体の中で勝手に暴れているわけではなく、システムの深い層で「処理」として回されていたこと。ルート区画の端末の奥と同じ層へ、端末を介さず潜ったこと。そこで毒の処理を見つけ、終わらせたこと。
「ただ、通常の権限じゃ弾かれた。通すには、署名がいる。誰が操作したか、記録に残る形で」
「……記録」
「名前を書いてきた。その記録は、管理系統とやらに送られた。送り先は三つ。うち一つは、すぐに読んだらしい」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
アナスタシアは、しばらく何も言わなかった。唇が、わずかに動いては、閉じる。
「……馬鹿か、お前は」
ようやく出てきたのは、それだった。
「お前は、ずっと隠れて生きてきたのだろう。気配を消して、見つからないように、息を殺して。そのために、どれだけ手間をかけてきたと思っている。それを、私のために」
「頼まれてない」
「頼んでいない。だから言っている。誰が、そんなことを望んだ」
声が震えていた。怒っているのか、そうではないのか、自分でも区別がついていないような声だった。
「借りは、作らない。……作りたくない。返せるものが、今の私には何もない」
「借りじゃない」
「では何だ」
少し考えて、俺は答えた。
「間違った処理が走ってた。だから止めた。それだけだ。壊れた判定を直すのに、貸しも借りもない」
「それだけで、命を賭ける者がいるか」
「賭けたつもりはない。手順を踏んだだけだ」
「鼻血まで出してな」
岩の傍に薪を下ろしながら、ライラスが口を挟んだ。
「……鼻血」
「頬も張った。文句は聞かんと言ってある」
アナスタシアは、ぽかんとした顔で俺の頬を見た。まだ少し腫れている。それから、なぜか目を逸らした。口元が、ほんのわずかに歪んで見えた。
「……カイト。あの時の、続きを」
「まだ言うな」
彼女の言葉を、遮った。
「言うなら、自分の足で立ってからだ。それまでは、保留にしとく」
アナスタシアは、何か言いかけて、結局、小さく息を吐いた。
「……分かった。覚えておく」
それきり、彼女は目を閉じた。呼吸は、ゆっくりと深かった。
翌朝、ライラスは「ひと回りしてくる」と言って出かけた。水場に寄って、近隣のキャッシュ領域の様子も見てくる、半日で戻る、と。
その半日が、やけに長かった。
アナスタシアは、まだ自分では起き上がれないまま、目だけを開けて梢を眺めていた。俺は薪を割り、水を運び、時々、ログを確かめた。何度見ても、神経毒の文字はなかった。
あの一行も、消えてはいなかった。受信確認、一件。
ライラスが戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。腰を下ろし、水を一口飲んでから、ゆっくりと切り出した。
「落ちてきたばかりの男がいた。奥の小さなキャッシュ領域に転がっていた。教国の、神殿の下働きだった男だ。足の骨を折っていたから、水を分けたら、よく喋った」
「……何を」
「神殿は、先月の終わりから喪に服しているそうだ。聖女アナスタシアは、自ら奈落に赴いて殉教した、と」
アナスタシアの指先が、外套の端をつまんだ。
「赴いて、か」
「落とされた、という部分は、都合よく消えたらしい」
ライラスは、淡々と続けた。
「同じ頃から、新しい聖女のお披露目の支度も始まったそうだ。まだ幼い、とだけ言っていた。男も、それ以上は知らなかった」
誰も、口を開かなかった。
幼い、という一言が、赤ん坊のことを指しているのかどうか。確かめようがなかった。確かめようがないのに、背筋だけが冷えた。
「そう、か」
アナスタシアは、それだけ言った。
天井の梢を見たまま、少しだけ笑ったように見えた。いや、笑ってはいなかったのかもしれない。
「私は、もう死んだのか」
「俺は、そう言い切るには、手回しが良すぎると思っとる」
ライラスが、独り言のように言った。
「死んだと布告するのは、勝手だがな。遺体を見ていない者が、そこまで堂々と喪に服せるものか」
それは、考えすぎかもしれない。ただの、教国らしい段取りの良さなのかもしれない。
だが、その言葉は、俺の頭の中のあの一行と、静かに重なった。
受信確認、一件。
誰が読んだのか。読んで、何をしたのか。
「……カイト」
呼ばれて、我に返った。
「水を」
「ああ」
「死人が、水を欲しがるものか」
そう言って、彼女はまた、少しだけ口元を歪めた。
俺は水袋を傾けた。喉が上下するのを見て、何も言えないまま、ただ、椀を支えていた。




