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奈落のデバッガー  作者: ろいぷぅ


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匙

 三日目になって、アナスタシアはようやく、自分で上体を起こせるようになった。


 それは、立派な進歩のはずだった。ただ、本人にとっては、そうでもないらしい。


「粥くらい、自分で食べられる」


「食べられてないから、言ってる」


 器を支えたまま、俺は匙を彼女の口元に運びかけていた。彼女は唇を引き結び、顔を背けている。眉間の皺は、元気だった頃と大して変わらない。


「手を出すな、坊主」


 岩の傍から、ライラスの声が飛んだ。


「嬢ちゃんは病人だ。だが、口はついている。匙を持たせてやれ」


「持てないから、困ってる」


「持てるかどうかは、やらせてから決めることだ」


 取り合う気はないらしい。ライラスは、自分の分の粥を黙々と啜っている。


 俺は渋々、匙を器に戻して、アナスタシアの膝の上に置いた。彼女は、じっとそれを見下ろした。細い木の匙が、やけに重たそうに見えた。


 指が、匙の柄を掴む。持ち上がる。揺れる。


 器に届く前に、匙は膝の上に落ちた。


「……っ」


 もう一度、掴む。今度は器まで届いたが、すくった粥は口に着く前に半分こぼれた。三度目は、持ち上げた拍子に手首が折れた。四度目は、匙そのものが手の中から抜け落ちた。


 彼女は、一言も文句を言わなかった。唇を噛んで、五度目に手を伸ばした。


 その間、俺は何もしなかった。何かしたら、彼女は絶対に許さないと分かっていたからだ。落ちた匙は、拾って渡す。それだけを、黙って繰り返した。


 五度目。


 粥が、ようやく彼女の口に届いた。


 飲み込んで、息を吐く。額に汗が浮いていた。それでも、彼女は何でもないような顔で、匙を器に戻した。


「……五回」


「何がだ」


「口に届くまで、五回かかった」


 それから、少しの間があって、彼女は言った。


「炭と、平らな石を持ってきてくれ。記録をつける」


 そういえば、以前にもそんなことを言っていた。感覚だけで判断すると、良くなっているのか悪くなっているのか分からなくなる。数字にしておけば、少なくとも嘘はつかない。


 拾ってきた石の表面に、アナスタシアは震える手で炭を走らせた。縦線が一本。その横に、「匙:五」。


 字はひどく歪んでいた。それでも、判読はできた。炭で黒くなった指先を見て、彼女はなぜか、ほんの少しだけ満足そうな顔をした。


 その日から、石の表面には、毎日少しずつ線が増えていった。


 匙は、翌日には四回で届き、その次の日には三回になった。水を自分で飲めるようになるまでには、結局五日かかった。座ったまま背筋を伸ばしていられる時間も、数えるように少しずつ伸びていった。


 四日目の昼、彼女は「外に出たい」と言い出した。


 外、といっても、キャッシュ領域の端まで数十歩ほどだ。梢の隙間から光の筋が落ちている場所がある。ここ数日、彼女の視線が何度もそちらへ流れていたのは知っていた。


「歩けないだろ」


「分かっている。だから、頼んでいる」


 頼んでいる、という言い方が、彼女の口から出たこと自体が、少し驚きだった。


 外套ごと抱え上げた体は、驚くほど軽かった。奈落に落ちてきた時より、また一回り痩せたのだと思う。彼女は、腕の中でできる限り身を硬くしていた。


「落とすなよ」


「落とさない」


「揺らすな」


「無理を言うな。歩いてるんだから、揺れる」


 数十歩の距離が、やけに長かった。光の筋の下に降ろしてやると、彼女は外套の端を握りしめて、目を細めた。


「……温かい」


 それだけ言って、しばらく黙っていた。


 焚き火の熱とは違う、日の光だった。奈落に落とされて以来、彼女がこの光を、じっくり浴びたことはなかったのかもしれない。


「ありがとう、とは言わないぞ」


「言わなくていい」


「……言わないが、助かった」


 小さな声だった。俺は聞こえなかったふりをして、薪を取りに戻った。


 その夜、眠れずにいたらしい彼女が、見張りに立つ俺の背中に声をかけた。


「……殉教というのは、どういう顔でするものなのだろうな」


「知るか」


「私は、一度も、誰かのために死のうと思ったことがない」


「だろうな」


「否定しないのか」


「してほしいのか」


 彼女は、少し黙った。


「……いや。その方が、まだ楽だ」


 寝返りを打つ音がして、それきり、声は途絶えた。俺は、焚き火の火勢を確かめるふりをして、しばらく背中を向けたままでいた。


 その間、俺とライラスは、交代で見張りに立った。


 教国の追手が来るかもしれない、という考えは、頭から離れなかった。だが、気配は何もなかった。足跡も、焚き火の跡も、人の匂いも。奈落は、いつも通りの静けさのまま、俺たちを包んでいた。


 その静けさが、かえって落ち着かなかった。


「浅いところだけだぞ」


 夜になると、ライラスは必ずそう念を押した。俺が、見張りの合間に意識を沈める時だ。


 署名をしてから、俺の中で変わったものがある。大きなことではない。ただ、デバッグ空間に潜るたびに、薄い膜のようなものが、輪郭に貼りついているような感覚があった。気持ち悪い、というほどではない。それでも、確かにそこにある。


 写し取られた、という言葉が頭に浮かんだ。誰かの手元に、俺の輪郭の一部が、紙のように置かれている。


 何も来ない。返事もない。


 それが、いちばん厄介だった。


 六日目の夜、焚き火の向こうで、アナスタシアが石に炭を走らせながら、不意に言った。


「あれから、何か来たか」


「いや。何も」


「そうか」


 石の上で、炭の音が止まる。


「来ないのが、一番、気味が悪いな」


「同感だ」


 短い会話だった。それだけ言って、彼女はまた石に目を戻した。縦線をもう一本足して、その横に何か書き込む。


 覗き込むのは、やめておいた。


 ライラスが、黙って薪を一本、火にくべた。


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