熱の引いた朝
目を開けると、梢の隙間が白んでいた。
どれだけ眠ったのか分からない。頭の奥に鈍い痛みが居座っていて、脈と一緒にこめかみの裏で疼いている。起き上がろうとして、先に腕が言うことを聞かないのに気づいた。
焚き火は小さくなっていたが、消えてはいなかった。誰かが、一晩中薪を継ぎ足していたのだ。
「起きたか」
火の向こうで、ライラスが鍋を掻き回していた。目の下の隈が、昨夜よりひと回り濃い。この男が横になったところを、俺は見ていない。
「寝てないのか」
「年寄りは眠りが浅いんだ。気にするな」
気にするなと言われても、気になる。だが、言い返す気力がなかったので、首だけを巡らせた。
アナスタシアは、昨夜と同じ場所で、外套にくるまれていた。銀の髪が頬に張りついている。顔色はまだ紙のように白い。それでも、唇にはうっすらと血の気が戻っていた。胸が、ゆっくりと、一定の間隔で上下している。
ログを呼び出す。
[ 神経毒:検出なし ]
[ 意識レベル:低下(回復傾向) ]
推定残存時間、という一行は、もう出てこなかった。
出なくていいのだ、と思った。そう思った途端、喉の奥がおかしな具合に熱くなって、慌てて水袋に口をつけた。
「熱は夜明け前に下がった。脈も落ち着いている」
ライラスが、椀を差し出してくる。薬草を煮出しただけの、薄い汁だった。
「ただ、喜ぶのは早い。毒が止まっても、毒に削られた分は戻らん。体の中身は、まだ空っぽのままだ」
「動かせないか」
「三日は無理だ。四日目でも怪しい。目を覚ましたところで、自分で水を飲むのがやっとだろう」
それくらいなら、いくらでも付き合える。
汁を啜っていると、ライラスが椀の縁越しにこちらを見た。
「昨夜の続きだ。名前を書いてきた、と言ったな。あれから、何か変わったことは」
「今のところ、何も」
「そうか。……逃げた奴が戻れば、向こうも次の手を考える。そう遠くない話だろう」
それは、そうだ。毒が効いたかどうかを確かめに来るかもしれないし、確かめるまでもなく、別の誰かをよこすかもしれない。
考えても、答えは出ない。出ないなら、せめて見える範囲だけは見ておきたかった。
「少しだけ、潜る。浅いところだけだ」
「浅いところだけだぞ。深く行きそうになったら、今度は頬じゃ済まさん」
無意識に、頬へ手が伸びた。熱を持って腫れている。
「……手加減くらいしろよ」
「しとらん」
しれっとした顔で言われて、俺は目を閉じた。
意識を沈めると、いつもの螺旋が展開した。三百六十度、どこまでも巡る光のコード。奈落で目覚めた最初の日から、ずっとここにある。昨日まで踏み込んでいた、あの冷たい行の群れとは、まるで別の場所のように温かい。
何も変わっていない。
そう思った、その時だった。
螺旋が、止まった。
一瞬だけだ。全方位に巡っていた光が、一斉に、同時に。頁をめくる直前の指先みたいに、ぴたりと動きを止めた。そして次の瞬間には、何事もなかったように流れ出していた。
ログには、何も出ない。
引き上げる前に、もう一つだけ確かめておくことがあった。昨夜の署名の、その後だ。送った記録に、返事は来ていないか。
意識を螺旋の外縁へ向ける。昨夜潜った深い層ではなく、そこへ続く入口の手前、一番浅いところだ。見落とさないよう、一行ずつ目で追った。
[ 送信履歴:1件 ]
[ 送信先:管理系統 3件 / 受信確認:1件 ]
[ 応答:なし ]
受信確認は、昨夜のまま一件。増えてもいなければ、減ってもいない。返事もなかった。
読んだ誰かが、読んだきり黙っているのか。それとも、返すまでもないと判断したのか。どちらとも取れた。何かが返ってくるより、こうして何も返ってこない方が、よほど気味が悪かった。
さっきの停止と、何か関係があるのか。確かめる手立ては、なかった。
目を開けると、ライラスがじっとこちらを見ていた。
「何があった」
俺は、見たままを話した。ほんの一拍の停止。理由は分からない。ログにも痕跡はない。署名への返事も、来ていない。
ライラスは、すぐには何も言わなかった。火に枝を一本放り込んでから、ようやく口を開いた。
「気のせいで済ませていい類のものとは、思えんな。かといって、今の俺たちに調べようもない」
「ああ」
「分からんものは、分からんまま抱えておけ。答えが出ん時に急いで出した答えは、大抵どこか間違っている。鑑定でも、同じことだ」
飄々とした口調だった。けれど、椀を持つ指がわずかに強張っているのを、俺は見逃さなかった。
それ以上、その話はしなかった。
水を汲みに行き、薪を拾い、昼を過ぎた頃になって、ようやくライラスが少しだけ目を閉じた。座ったまま、岩に背を預けて、半分だけ。それを見届けてから、俺はアナスタシアの傍に腰を下ろし、濡らした布で彼女の額を拭いた。
熱は、もうほとんどなかった。
布を絞り直していると、外套の上に投げ出された彼女の指が、ほんの少し丸まった。握ろうとしたのか、ただの寝返りの代わりなのかは分からない。目は閉じたままだった。それでも、昨夜の、氷みたいに冷たくて動かない指とは、まるで違っていた。
ログを呼び出す。
[ 意識レベル:正常(睡眠) ]
睡眠。
たった二文字だった。昨日まで俺が睨み続けてきたどんな数字よりも、短くて、何の飾りもない文字だった。
しばらく、そこから目が離せなかった。
「寝かせておけ」
岩の方から、ライラスの声がした。片目だけが、薄く開いている。
「目を覚ますのも、そう遠くない。……お前も寝ろ。顔が、死人みたいだぞ」
「そっちこそ」
返事の代わりに、ライラスは鼻を鳴らしただけだった。




