署名
明滅は、止まらなかった。
一度、また一度。規則正しい、どこまでも事務的な間隔で。この行が一回光るたびに、焚き火の傍で彼女の呼吸が浅くなる。そう分かっていて眺めているのは、ほとんど拷問に近かった。
迷っている時間はない。それでも、意識の手がすぐには伸びなかった。
署名をすれば、俺がどこの誰で、何をしたのかが、知らない誰かの手元に届く。奈落の底に捨てた「バグ」が、まだ生きている。それどころか、管理者の真似事までしている。教国がそれを知ったら、次に送り込まれてくるのは、三人で済むだろうか。
開発者の方は、もっと分からない。忘れ物を拾った人間を、向こうはどう扱うのか。返せと言ってくるのか。それとも、黙って消しにくるのか。
どれも、答えの出ない問いばかりだった。
ふと、焚き火の傍で聞いた声が、耳の奥に蘇った。
――黙ったまま終わるのは、卑怯だと思った。
あいつは、死にかけの体で、自分の一番みっともないところを俺の前に晒した。誰に頼まれたわけでもないのに。
それに比べて、俺はどうだ。ここまで来て、名前を書くのが怖いと足踏みしている。
治ってから、もう一回言え。そう言ったのは、俺の方だ。
「……分かったよ」
誰に向けたのでもない呟きが、冷たい空間に吸い込まれていった。
俺は、「署名付き強制実行」の行へ、意識を押し当てた。
[ 署名付き強制実行を承認しますか ]
[ 承認 ] [ 取消 ]
承認。
迷いが戻ってくる前に、選んだ。
[ 署名者:未登録アカウント(異常個体) ]
[ 資格情報の一部を署名として添付します ]
異常個体。管理端末で見た、あの呼び名だった。この冷たい場所から見れば、俺はやはり名前すら持たない、ただの異常な何かでしかないらしい。
構わない。今さら、どう呼ばれようと。
体の芯から、何かが薄く引き剥がされていくような感覚がした。痛みはない。ただ、自分の輪郭の一部を、紙に写し取られていくような気持ちの悪さだけがあった。
[ 継続処理:神経毒 ― 終了 ]
明滅が、止まった。
あれほど執拗に光っていた行が、ふっと色を失い、音もなく列から抜け落ちていく。その下で、呼吸系と体温調節系の数字が、わずかに揺れた。下がり続けていた値が、ほんの少しだけ、上を向いた。
それを見届けた途端、全身から力が抜けそうになった。
だが、表示はまだ終わっていなかった。
[ 監査ログを送信中…… ]
[ 送信完了:管理系統 3件 ]
三件。
どこに届いたのかは、書かれていない。書く必要もない、ということなのだろう。この場所にとって、それはただの手続きの一つに過ぎないのだ。
一つは、教国の遺物か。もう一つは、この場所を作った誰かか。だとすれば、残りの一つは何だ。俺が思いつきもしない何かが、この世界のどこかで、同じように記録を受け取れる立場にいるということになる。
考え始めると、足元の床が急に心許なく感じられた。これまで俺は、この世界の裏側を一方的に覗いている側のつもりでいた。だが、覗き穴というのは、向こうからも覗けるものなのかもしれない。
引き上げよう。そう思って、意識を浅い層へ向けかけた時だった。
[ 受信確認:1件 ]
背筋が、凍った。
三つのうち、一つだけ。送った記録を、向こうで誰かが――あるいは何かが――開いた。それも、ほとんど間を置かずに。
壁の向こうで感じた、あの巨大な視線を思い出す。気のせいでは、なかったのかもしれない。
その時、頬に鋭い痛みが走った。
「――カイト! 戻れ!」
ライラスの声が、今度ははっきりと聞こえた。
視界が一気に反転する。整然と並んでいた行の群れが遠ざかり、代わりに焚き火の橙色と、煤けた天井のような木々の影が、目の中に流れ込んできた。
鉄錆の味が、口の中いっぱいに広がっていた。
「おい、分かるか。俺の顔が見えるか」
「……見えてる。叩きすぎだ」
「文句は聞かんと言ったはずだ」
ライラスの手は、俺の両肩を掴んだまま震えていた。鼻から垂れた血は、顎を伝って胸元まで濡らしていた。ずいぶん長く潜っていたらしい。
「嬢ちゃんは」
体を起こそうとして、ぐらりと視界が傾く。ライラスに支えられながら、焚き火の向こうへ目をやった。
アナスタシアは、さっきと同じ場所に横たわっていた。目は閉じたままだ。だが、胸の上下が違った。浅く、速く、途切れがちだったあの動きが、ゆっくりと、深いものに変わり始めていた。
ライラスが、彼女の額に手を当てる。
「……熱が、引いてきている」
その声が、かすかに上擦っていた。
俺は、何も言えなかった。安堵とも疲労ともつかないものが喉の奥で詰まって、言葉の形にならなかった。ただ、彼女の胸がもう一度、深く上下するのを、瞬きもせずに見ていた。
「何をした」
「止めた」
口に溜まった血を吐き出してから、俺は答えた。
「毒を回してる処理を、終わらせた。……その代わり、名前を書いてきた」
「名前?」
「どこの誰がやったか、向こうに分かるようにしてきた。送り先は三つ。そのうち一つは、もう読んだらしい」
ライラスは、しばらく黙って俺の顔を見ていた。問い詰めるような目ではなかった。何を背負い込んできたのか、測ろうとしているような目だった。
「そうか」
それだけ言って、ライラスは布を濡らし、俺の顔の血を乱暴に拭った。
鑑定士だった頃、この男は曲げられない結果を一つ抱えて、全部を失った。自分の名前で記録を残すことの重さを、たぶん誰よりもよく知っている。だから、何も言わないのだろうと思った。
「なら、それは明日考えればいい。今夜は、二人とも生きている。それで十分だ」
俺は頷いて、焚き火の傍に仰向けに倒れ込んだ。
目を閉じると、瞼の裏に、あの一行がまだ焼きついていた。受信確認、一件。誰が読んだのか。読んで、何を思ったのか。
すぐ隣から、アナスタシアの寝息が聞こえてきた。
静かで、規則正しい、生きている人間の呼吸だった。




