壁の向こう
点滅が、止まった。
[ 資格情報:部分一致 ]
[ 権限区分:制限付き管理者 ]
[ 閲覧制限を一時解除します ]
灰色の壁が、音もなく溶けた。
崩れるのでも、砕けるのでもない。最初からそこには何もなかったとでも言うように、ただ薄れて、消えた。
その向こうに広がっていたのは、俺の知っているデバッグ空間とはまるで別物だった。
螺旋がない。光の渦も、流れていくコードの奔流もない。代わりにあったのは、どこまでも整然と並んだ、無数の細い行だった。一行一行が淡く明滅しながら、上から下へ、途切れることなく続いている。音はないのに、低い唸りのようなものが肌の内側に響いていた。
冷たい場所だ、と思った。
寒いのではない。誰かの気配というものが、まるでしない。ここは生き物が来るように作られていない。そういう冷たさだった。
[ 実行中の処理:73,905,218,446,172,630,581,904,217件 ]
桁を数えようとして、途中で諦めた。
億でも兆でもない。その先の単位を、俺はもう知らなかった。この一行一行が、全部そうなのか。奈落の木々の揺れも、魔物の呼吸も、焚き火の炎も。どこかで誰かが書いた何かが、今この瞬間も休まず回り続けている。
圧倒されている暇はなかった。
俺は意識を絞り、アナスタシアの姿を思い浮かべた。煤で汚れた銀の髪。焚き火の傍で、浅く上下していた胸。あの冷たい指先。
行の群れが、ざわりと揺れた。
無数の行がするすると脇へ退き、やがて一つの塊だけが、目の前に引き寄せられてくる。
[ 個体:Anastasia ]
[ 分類:人間種/登録区分:聖女(旧) ]
「……旧、か」
思わず声が出た。
聖女(旧)。たった一文字の括弧書きが、奈落に落とされた彼女の境遇を、どんな噂話よりも正確に言い当てていた。本物が見つかったのなら用済みだと、あの夜、境界の際で彼女は言った。その怯えは、思い過ごしでも何でもなかったのだ。
誰がいつ、その一文字を書き足したのか。考えかけて、やめた。今はそれどころじゃない。
塊の下に、細い行がいくつもぶら下がっていた。生命維持。体温調節。呼吸。俺にも読める言葉で、見慣れない数字が並んでいる。その中に一行だけ、明らかに色の違うものがあった。
[ 光属性:外部供給 ― 供給元:応答なし ]
遺物のことだ。奈落に落とされたあの日から、彼女の力は供給を断たれていた。本人の口から聞くより、ずっと淡々と、ずっと残酷な書き方だった。
そして、その少し下。
[ 継続処理:神経毒 ]
[ 実行間隔:短 / 対象:呼吸系・体温調節系 ]
[ 付与元:外部個体(識別:教国所属) ]
見つけた。
胸の奥で、何かが跳ねた。
やっぱりそうだった。毒は、ただ体の中で勝手に暴れているわけじゃない。この世界は、それを「処理」として回している。一定の間隔で、呼吸と体温に手を伸ばし、少しずつ削っていく。キャッシュ領域で俺がいくらフラグを探しても見つからなかったのは、当然だ。探していた場所が、一段浅かったのだ。
ここなら、手が届く。
付与元の一行にも、目が留まった。教国所属。逃げていったあの刺客の後ろ姿が、脳裏をかすめる。矢を放った本人はとうに闇の中へ消えたというのに、奴の置いていったものは、今もこうして律儀に仕事を続けている。腹の底が、じわりと熱くなった。
継続処理の行に、意識を寄せる。行の端に、小さな選択肢が浮かび上がった。
[ 一時停止 ] [ 終了 ]
一時停止では駄目だ。止めている間はいい。だが、俺が手を離した途端に、また動き出すかもしれない。そもそも、いつまでもここに潜っていられるわけがない。
終わらせるしかない。
俺は「終了」に意識を伸ばした。
[ 終了:権限不足 ]
弾かれた。
跳ね返された衝撃が、頭の芯を殴りつけた。鼻の奥から、生温いものがつうっと垂れていくのが分かった。
遠くで、誰かが俺の肩を掴んだ。ライラスだ。約束の合図だ。引き戻される。
――待ってくれ。
声にはならなかった。それでも、肩を掴む手の力が、ほんのわずかに緩んだ気がした。俺の顔を見て、何かを察したのかもしれない。あと少しだけ。そう言われている気がした。
もう一度、行を睨む。
権限不足。当然だ。俺の資格情報は「部分一致」でしかない。開発者の忘れ物の、そのまた欠片。全部を動かせるはずがない。
石ころ一つで格上を転ばせた時も、岩盤の当たり判定を消した時も、俺はいつも正規の手順の外側から割り込んできた。真正面から許可を求めて通れたことなんて、一度もない。だからこそ、壁の前で弾かれるたびに、どこか横に抜け道がないかを探してきた。
なら、欠片のままで通る道はないのか。
食い下がるように意識を押し当てると、「終了」の文字の下に、もう一行が滲み出てきた。
[ 代替手段:署名付き強制実行 ]
「署名……」
読んだ瞬間、嫌な予感がした。
それが何を意味するのか、半分は分かった。この操作が誰によるものかをはっきり刻んだうえで、無理やり押し通す、ということだ。
続けて、もう一行。
[ 注意:操作者の資格情報は監査ログへ送信されます ]
[ 送信先:管理系統(複数) ]
送信先、複数。
ルート区画の管理端末で見た文言が、頭をよぎった。遺物経由の、非正規の権限昇格。教国上層部は、遺物を使ってこの世界の仕組みに手を突っ込んでいた。なら、その「管理系統」の一つが、教国の手の内にないと言い切れるか。
そして、もう一つ。この冷たい場所を作った、本来の持ち主。
ここで署名をすれば、俺がここにいることを、その両方に知らせることになるのかもしれない。
これまで、俺は隠れることで生き延びてきた。シグネチャ秘匿で気配を殺し、境界維持プロセスの目をすり抜け、誰にも見つからないように奈落の底を這い回ってきた。奈落に捨てられた「バグ」が、まだ生きている。それを知っているのは、焚き火を囲む二人だけのはずだった。
その全部を、ここで自分から明かすことになる。
鼻血が、顎を伝って落ちた。
肩を掴む手に、また力がこもる。
目の前では、継続処理の行が、変わらない間隔で淡く明滅を繰り返していた。一度、また一度。そのたびに、どこかで彼女の呼吸が浅くなっていく。




