見ていなかった
「――大聖堂でのことだ」
アナスタシアは、そう切り出した。
俺の腕を掴んだ指に、ほとんど力は残っていなかった。それでも、離そうとはしなかった。
「あの日、私はお前の顔を見ていなかった」
焚き火の爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。
「ここで初めて会った時、お前は私を知っていた。私は、お前が誰なのか分からなかった。……あれは、忘れたのではない。最初から、見ていなかったんだ」
息継ぎのたびに、言葉が途切れる。
「十、という数字だけを見た。それで、終わりにした。お前がどんな顔をしていたのか。何か言おうとしていたのか。何一つ、見ようともしなかった」
俺は黙っていた。
黙っているしかなかった。あの日の光景が、勝手に瞼の裏へ浮かび上がってくる。石造りの床に落ちる、ステンドグラスの色。足元で青白く光り始めた紋章。そして、こちらを見下ろしていた氷のような目――いや、違う。彼女の言う通りだ。あの目は、俺を見下ろしてなどいなかった。俺の頭の上の、どこか別のところを見ていた。
今になって、それがはっきりと分かった。
奈落に落ちてから、あの目を何度夢に見たか分からない。石ころを握りしめて眠れずにいた夜も、クロックダウンの反動で吐いた朝も、頭のどこかにはいつもあの冷たさがあった。憎むことで、どうにか立っていられた時期もあった。
なのに、憎んでいた相手は、そもそも俺を見てすらいなかった。
腹の底で何かが煮えかけて、すぐに冷めた。怒りの矛先が、ふっと消えてしまったような感覚だった。
「謝りたい、のではない」
アナスタシアは、かすかに首を振った。
「謝って済むと思えるほど、私はもう、愚かではいられない。……ただ、黙ったまま終わるのは、卑怯だと思った。それだけだ」
ずるい、と思った。
こんな状態で、こんなことを言われて、俺はいったいどんな顔をすればいいのか。怒ればいいのか。許すと言えばいいのか。どちらも違う気がした。どちらを口にしても、嘘になる気がした。
「――今、言うな」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「死にかけの奴の言うことなんか、まともに聞けるか。言いたいなら、治ってから言え。自分の足で立って、俺の顔を見て、もう一回言え」
アナスタシアの目が、わずかに見開かれた。
それから、ほんの少しだけ口元が緩んだ。笑ったのかもしれない。確かめる前に、彼女の瞼はゆっくりと落ちていった。
[ 意識レベル:低下 ]
[ 呼吸:浅速化 ]
「嬢ちゃん」
ライラスが身を乗り出す。胸は、まだ上下していた。だが、その動きは目に見えて弱々しくなっていた。
俺は、彼女の手をそっと外して、焚き火の傍に置いた。指先が、氷みたいに冷たかった。
もう一度だけ、ログを確かめる。
[ 神経毒:進行中 ]
[ 推定残存時間:算出不能 ]
変わらない。減っていく数字を見せられる方が、まだましだったかもしれない。数字そのものが、出てこないのだ。残りが一日なのか、一刻なのか、それすら分からないまま待つしかないのだ。
考えろ。
さっき、俺は言った。これは毒物が体内で作用している。プログラム上のバグとは違う、と。
本当にそうか。
この世界は、コードでできている。石ころの衝突も、岩盤の当たり判定も、魔物のスポーンも、全部そうだった。なら、毒が体を蝕んでいくという現象だって、どこかで「処理」されているはずだ。俺に見えないのは、それが存在しないからじゃない。見える場所まで、手が届いていないだけなんじゃないのか。
ルート区画の管理端末で、俺は壁の向こうに触れかけた。「閲覧のみ許可」の、さらに奥。あそこで照合された資格情報は、端末のものではなかった。俺に貼りついた、開発者の忘れ物だ。
だとすれば――端末がなくても、届くかもしれない。
「ライラス」
「……何か、思いついた顔だな」
「管理者権限の断片を使う。前に端末の奥で触れかけた、あの層まで潜る。毒そのものは無理でも、毒を回してる処理の方なら、止められるかもしれない」
ライラスは、すぐには答えなかった。
「あの時、お前は顔色を失っていた。端末の前で、ほんの少し触れただけでだ」
「分かってる」
「今度は、それより深く潜るつもりなんだろう。お前まで倒れたら、俺は二人を抱えることになる」
「それも分かってる」
分かっていて、それでも言っていた。
あの壁の向こうに何があるのか、俺は知らない。照合に失敗したら、弾き返されるだけで済むのか。それとも、権限監査体のような何かが、今度は俺自身を目掛けてやってくるのか。考えれば考えるほど、足がすくむ。
だが、ここで何もせずに朝を待つ方が、よほど怖かった。
ライラスは長く息を吐くと、アナスタシアの額の汗を布で拭い、それから俺の方へ向き直った。
「なら、決めておくことがある。鼻から血が出たら、俺はお前を引き戻す。揺さぶって、頬を張ってでもだ。文句は聞かん」
「……ああ。頼む」
「それと、坊主」
ライラスは、焚き火に薪を一本くべた。
「さっきの嬢ちゃんへの返事。あれは、悪くなかった」
答えずに、俺は目を閉じた。
意識を沈める。いつもの手順だ。音が遠のき、肌に触れる熱が薄れ、代わりに光の筋が視界を埋めていく。三百六十度、どこまでも巡るコードの螺旋。
だが、今日はそこで止まらない。
螺旋の中心、これまで一度も踏み込まなかった暗がりへ、思考の先端を向ける。抵抗があった。粘ついた水の中を掻き分けるような、重たい手応え。頭の奥で、鈍い痛みが脈を打ち始める。
構わず、押し進めた。
やがて、見覚えのある灰色の壁が、暗がりの底からせり上がってきた。
[ 閲覧のみ許可 ]
あの時は、ここで押し返された。
今は、引く理由がない。
壁に意識を押し当てる。こめかみが軋んだ。鼻の奥に、鉄錆のような匂いがかすかに滲む。まだだ。まだ、ライラスの手は来ていない。
壁の表面が、波打った。
[ 未知の資格情報を検出 ]
[ 照合中…… ]
[ 照合中…… ]
同じ一文が、二度、三度と点滅を繰り返す。
その向こうで、何か巨大なものが、ゆっくりとこちらへ目を向けたような気がした。




